チェンナイ観光 l サントメ大聖堂・インドにおけるキリスト教を考える。
8月末の日曜日、サントメ大聖堂に行った。
祖父の7回忌で親戚一同集まっていたのだが、私はそのタイミングで帰国というわけにもいかなかったので、こちらの教会で祈ろうと思った。
キリスト教ではもちろん7回忌という言葉は使わない。プロテスタントの場合、7年目の昇天記念日、と言うのだそうだ。
そして、そう、祖父はプロテスタントなのだ。
なのに私はサントメ大聖堂というカトリック教会の代表とも言える場所へ行った。
祖父には申し訳ないが、それで怒るような人ではなかったと思う。許してもらいたい。
サントメ大聖堂
教会の敷地に入ると駐車場スペースがあり、大聖堂の周囲は広々としている。
車から降りるとムワッとした湿気と潮風の匂いが感じられ、海が近いことを思い出す。
サントメの名前は、イエス・キリストの使徒、聖トマスに由来する。
聖トマスは1世紀に南インドで布教を行ない、この地で殉教死したと伝えられる。
大航海時代の 1557年、インドに進出したポルトガルによってこの大聖堂が建てられ、その頃からここはキリスト教の聖地とみられるようになったそうだ。なのでポルトガル語で São Tomé サントメ (聖トマスの意) と呼ばれる。
ちなみに初インド上陸時、交易を通して南インドにすでにキリスト教徒がいたのは確認されているが、実際に聖トマスが布教を行ったかはわかっていないらしいらしい。
インドにおけるカトリック教会の宣教は、1533 年よりゴアを拠点として展開されていく。1543 年にフランシスコ・ザビエルがゴアを訪れ、ザビエルは精力的に地方に赴いて宣教活動を行った。そのため南インドとくに沿岸部にはキリスト教徒が多いそうだ。
インドにおけるキリスト教について、とてもわかりやすく解説してくれているブログを読んだのでこちらに紹介させていただく。
大聖堂から出て、聖トマスのお墓があると言う裏手へ向かう。
聖トマスが実際亡くなった場所は、聖トーマスの丘 St. Thomas Mount と言って別にある。
今回は行かなかったが、この丘もそのうち訪れたい。
話はサントメ大聖堂に戻る。大聖堂の裏には聖トマスの墓と博物館があり、
上記で殉教した聖トマスの遺体が葬られた場所と考えられているそうだ。
聖トマスは最初キリストの復活を信じることができず、キリストの傷を指を入れて確かめたという逸話がある。その場面を描いた絵『聖トマスの不信』が飾ってある。本物はドイツのポツダムにあるサンスーシ宮殿の絵画館に所蔵されているそうだ。
上に戻ると、大勢の人がいて、こちらを不思議そうに見ていた。
おそらくちょうどミサが始まる時間なのだろう。
高齢の人はおらず、みな若め。
ヒンドゥー教寺院を訪れたときには家族連れを多く見たし、歩くのもままならないようなお爺さんお婆さんもたくさん見かけたが、キリスト教会を訪れる教徒は若い印象があり、あまり大勢の家族も見かけない。
ヒンドゥー教のお祭りや寺院をお参りするインド人のイメージが強く、そしてだいたいヒンドゥー教寺院は賑やかで入り口がとっ散らかっている。
そこと比べて静かに厳かに祈っているインド人と教会という風景を見ると、ヨーロッパとあまり変わらないなという感じがした。
以前訪れたポンディシェリの教会ではミサの時間と重なり超満員だったので、信者の数はそこそこ多いのだろう。
他の地域はあまり詳しくないが、チェンナイやポンディシェリなど、南インドでは街中で立派な教会をよく見かける。
ゴシック様式の教会は目立つので目に付くが、海沿いの漁師街には十字架がくっついているだけの小屋があったり、シンプルな教会も多い。
インドのキリスト教徒をめぐる問題と思うこと
インドはフィリピンに次いでアジアで2番目にカトリックの人口が多い国だが、約1800万人のカトリック教徒は、14億人近いヒンズー教徒の多いこの国では少数派に過ぎない。
ナレンドラ・モディ首相のヒンズー教民族主義政権のもとで宗教的緊張が高まり、少数派に対する攻撃がより頻発しているという。
州によっては「改宗禁止法」を成立させ、キリスト教徒が同法で逮捕・勾留されたり、宗教的過激派によるクリスチャンへの迫害・暴力が正当化されるなど、恐ろしい現実がここにある。
クリスマスの聖歌を歌っていただけで、神父や神学生ら32人が警察に拘束されたという報道もあった。
インドではイスラム教徒に対する長き領土争いや宗教紛争がまず念頭にあがるが、キリスト教徒も同じように迫害にあっているのだ。
インドにおけるキリスト教徒は、旧低カースト層が差別から逃れるために改宗することが多いと言われている。カトリックもプロテスタントも、ヨーロッパから来た宣教師は当初トップダウン形式で宣教活動を試みたそうだが、バラモンはじめ上位カーストの耳には響かなかったというのは想像に難くない。
教派や宣教政策の違いにもかかわらず、19 世紀も後半になるとプロテスタント教会およびカトリック教会の信者は、結果的には不可触民とそれに準じる低カースト出身者によって占められるようになった。現在、インドの全キリスト教徒の約 60%が出自を不可触民に辿るという統計もある。
彼らは教会で配られる食事にありつくことを目的とした「ライス・クリスチャン」と蔑視されたりもするそうだ。
なお、今回訪れたトマス教会の典礼はシリア語で行われていることから、その信者はシリアン・クリスチャンとも呼ばれる。
驚いたことに、シリアン・クリスチャンはカースト集団とみなされ上位に位置づけられているという。
つまりキリスト教徒の中においても、インド古来からの階級ピラミッドが存在しているのだ。階級による差別から逃れるために改宗した先でも、また階級が存在する。どこまでいってもこの根強いカースト文化からは抜け出せない。これがインドなのだ。
文献やニュースを読めば読むほど、インドの深く揺るぎない悲しい現実に直面する。
一方、インド政府が低カーストを優遇する制度を始めてからは、異教に改宗したものへは制度は適応されないという理由から、再度ヒンドゥー教徒に戻るキリスト教徒も多いそうだ。その方が暮し向きがよい人もいるということなのだろう。
話が逸れるがこの低カースト出身者に対する優遇制度も弊害が多く、バラモンの家に生まれた優秀な生徒が大学受験で不合格で、優先枠の生徒がその半分以下の点数で合格するという事例があったりする。
このような場合、上位カースト出身の優秀な人材が米国やカナダなど海外に進学し、インドに残らないという。
これ関連の問題もなかなか奥が深すぎるので、いずれまとめて書きたいと思っている。
私が現実味を持ってインドのキリスト教について考えるに至ったのは、我が家のお手伝いさん(Lさん)も、クリスチャンであるからだ。
初期の Note でも書いた L さんである。
彼女は先日お金に困っているとお金の無心をしてきたので、暮らしむきは大変だと思う。
しかし L さんは常に明るく、お菓子や食べ物をねだる時も常に笑顔で悲壮感がない。
おそらく旧低カーストからの改宗と思うのだが(私のタミル語の能力ではまだそこまで深い話ができないし尋ねることでもないので確定はできない)、今まで書いてきたような悲しい背景を感じさせるような雰囲気は全くない。
インドの階級社会を生き抜く上で身についている性格的なものなのか、全員がそういうわけではないが、生活に困るほどの貧困でも、悲壮感を出すことなく暮らしているインド人は多い気がする。
お金の無心をされた際にどう対応するかはいろいろ考えるところがあり、その後の話もまた書きたい。
最後に。
インドが世界で台頭してきているのは間違いないが、こういう国内の状況が改善されるのは一体いつになるのだろうか。
先に引用した現代インドフォーラムで、Kanya Kumari Social Service Society(KKSSS)という社会福祉事業について紹介されていた。タミルナードゥ州タッカライ教区の東方カトリック教会で始まった、国民のエンパワーメントに力を注いでいる事業である。
こういった事業や企業が増えてくれば、パワーを持った教徒が増え、地方から改善されるのかもしれない。影響力のある人物が声を上げると、それに続く国民や同じ思想が増える。
あとは国のトップが変わるタイミングでは状況が良い方向に変化するのかもしれない。しかしリーダーが寛容で国が変化するほどの影響力を持つと過激派原理主義者に殺害されるというのも歴史の常である。
5年後、10年後、長い時間がかかるだろうが、差別や迫害が減り悲しいニュースのないインドが実現することを祈る。