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本の記憶、言葉で内側をさぐる

ゆこりんへ

ちょっと間が空いてしまいました。
その間にも少しずつ秋が深まってきたねぇ。金木犀もあっという間でした。
ここ数日で、庭のハナミズキや夏椿の葉っぱが色づき始めています。
山の方はもう紅葉しているかな。山のカフェでお茶したいねぇ。
熱くて濃いミルクティーと松の実タルトがいいなぁ。
ゆこりんとご家族のお話をゆっくり聴きたいし、お茶とお菓子で労いたい気持ちでいます。


咲き始めてすぐに雨が続いて、
今年の金木犀は一瞬でした。


10月は伯父が亡くなって葬儀があったり、母の一周忌があったりして、亡き人・往く人を偲ぶ機会が続きました。親や伯父叔母を送る年齢になってきたんだなぁとしみじみ…。自分がこの世に生まれてくるのを迎えてくれた人たちを、今度は見送る立場になる。その役目について考えさせられるこの頃です。
そして、亡くなった両親や近しいひとたちは、バトンを受け継いだわたしたちを天から見守って導いてくれているんだなぁって最近すごく感じるんだ。一緒に生きていた時は、生活のあれこれに摩擦が起きて、その行いや言葉を愛ではないと感じることもたくさんあったけれど、今はもう父からも母からも愛しか感じなくて、そうやって亡き人は次の世代の生きる力になっていくのかもしれないな、と思ったりします。

そう言えば、不思議なことがあったの。
母の一周忌の日に、わたしの愛車の走行距離のメーターが「55555km」になったんだ。父の時にもこんなことがあった気がして調べてみたら、12年前の父の一周忌には「33333km」になっていて記念に写真を撮っていたの。(車は前に乗ってた別の車)
なんだか父と母からの不思議なメッセージのような気がしてね。そしていつかわたしも、あーちゃん(娘)の車のメーターをゾロ目にする日が来るのかもしれないなって思ったんだ。わたしが天に召された暁には、そりゃあもう全振りであーちゃんの人生すべてを応援しちゃうなと思って、それはそのまま今自分が享受している両親からの見守りや導きと重なって、なんだか泣けてしまったのでした。親の愛って偉大だね。


ゆこりんのお手紙にあった名前のことだまのお話、あれすごいね〜!
確かに、名前の響きって不思議なくらいその人のイメージにぴったりだよね。名前のような人に育っていくものなのかなぁ。
わたしは「ちえ」の他に「さとこ」っていう名前が候補に上がっていたらしいのだけど、もし「さとこ」になっていたら違う人生だったような気がするよ。
猫の名前もそうだなぁって思う。うちの猫たちはそれぞれ「しま」「センセイ」「たびちゃん」っていう名前をつけてそう呼んでいるけれど、今では他の名前は考えられない。「センセイ」は「センセイ」以外の何者でもないし、たびちゃんもしまも同じく。
名前って不思議だね。素晴らしい贈りものだよね。これも、大切な人たちからの愛だねぇ。



たびちゃんのたびちゃん加減よ…
もう、たびちゃんでしかない



わたしの書く文章を好きだって言ってくれてありがとう。
わたしもゆこりんの文章がかなり好きです。大ファンです。とても誠実な感じがするし、あったかい感じがする。読んでいると、とても気持ちが落ち着いて、愉しい気持ちになる素敵な文章だなぁっていつも思っています。そして、たびたびお腹が空くの(笑)お腹が空くなんて、ものすごく健やかな言葉たちである証拠だよねぇ。こうして往復書簡で定期的にゆこりんがわたしに向けて書いてくれた文章を読むことができるって、すごく贅沢で豊かなことだなぁと感謝が湧きます。


感情記録のこと。
感情を言葉で記録するのは、わたしにとって写真を撮るのに似ている気がする。
感情は流れていってしまうし、変化してしまうから、言葉にしないと残しておけない気がして。この瞬間だけのものである光や風景を写真に撮って残しておきたくなるのと同じ感じがあるの。
それに、感情を言葉にしようとする作業は、自分の内側を探索したり観察することでもあるから、すごく大事なことだと思ってるんだ。わたしたちは、油断すると自分自身とすら出会わずに日々を過ごしてしまえるから。
自分の気持ちを言葉にしようとする時、何度も内側をなぞって、指先や手のひらで感じとって、自分と言葉が一致するまで内側をさぐる訳だけれど、そのプロセスは、自分と真にともに居ることで、自分を理解することで、慈愛のまなざしを注ぐことだなぁと思う。


「普段どんな本を読んでいるか」という質問について。
本はね、実はそんなに読まないんだ。読めないというか。
学生時代は本の虫みたいにいつも本を読んでいたけれど、特にここ10年くらいは、あまり読めなくなってしまいました。たまに読みたい本があるときに、ゆっくり時間をかけて少しずつ読むくらい。あとは実用書を必要に迫られて(笑。これもあんまり読めなくて苦労している)最近読む本は、いろんな考え方やものごとのしくみを知るために読んでいる気がする。

若い時は、特別に好きな本があって、ぼろぼろになるくらい繰り返し繰り返し読んでいたけれど、4〜5年前に断捨離した時に、それらの本も手放してしまいました。もうその物語の世界は自分の中にあると感じたから、物質としての本は要らないなと思ったの。その時処分したのは、江國香織の『流しのしたの骨』とか、保坂和志の『草の上の朝食』とか、吉原幸子詩集とか、20冊くらい、ずーっと長く持っていて何度も何度も読んだ本ばかりだった。今こうして題名を連ねてみると、やっぱり手元に置いておけばよかったかなぁと思う。慕わしい気持ちになる。その物語の空気や言葉の響きたちが、まるで自分の体験のように懐かしく感じます。本ってすごいね。
その断捨離の時に、すでに自分の内側にあると感じても尚、捨てられなかったのは『ムーミン』のシリーズ。ムーミンの物語は、パッと開いたページを読むだけで(そして美しい挿絵を眺めるだけで)、その世界のやさしい物悲しい空気と自分を同期できる感じがするの。落ち着かない気持ちになった時や疲れ切った時に、手に取りたくなる本です。モノとしても素晴らしいから、物質として部屋に置いておきたいという気持ちもある、すごく大切な本です。


『ムーミンパパ海へいく』は2冊持ってる。
左が自分で装丁したもので、右は新装版。


あらら、熱量が抑えられず、長く書いてしまいました。
言葉とか本とかの話は、ずっと話していられるテーマかも。今度、合宿しようね!夜更かしして語り合おう。


夜更かしの話から一転、最近のわたしは、よく眠っています。
そして、夢をたくさん見ます。目が覚めても、結構詳細に覚えています。
他人の夢の話はつまらないというけれど、わたしは好き。聴きたい。(そうそう、好きな本もう一冊。武田百合子の夢の記録が入っている『ことばの食卓』すごく好きでした)
数日前には、久しぶりに父が夢に出てきました。一緒に車に乗っていてわたしが運転していたんだけど、信号待ちで窓の外を見たら、大きな土星が水色に艶々と光っていたの。満月の時、月がすごく大きく見える時があるけれど、あんな感じの大きさだった。それで、父に「土星があんな風に見えることがあるんだね!」とびっくりしながら言ったら、父が「今まで見えていなかった分だよ」と言ったの。そんなことってあるんだ!という驚きと、お父さんっていろんなこと知っててすごいな、という子どもの頃みたいな気持ちが、目が覚めたあとも残っていました。
ゆこりんは、印象に残っている夢ってある?夢はよく見るほうですか?起きてからも覚えてる?
ゆこりんの夢の話、よかったら、聴かせて欲しいな。

ゆこりん、いつもありがとう。
たくさん眠って、いい夢をみて、よく休んでね。
ゆこりんの日々に、穏やかさと、やさしいことがたくさんあるように祈っているよ。


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