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【みこ宇宙論】可能性という名の軍資金が無限にあるガチャ遊び

この世界は映写機が映し出している仮想現実である

 仏教の時間論、世界観と量子力学の世界像はそっくりなのですが、中でも世界の、宇宙の成り立ちを説明するときに、みこちゃんが最もその共通性をよく表しているなと思うのが、世界の映写機モデルです。

 この世界は映写機に写った世界であるというのは、この記事あたりでも詳してく取り上げていました。

 今回はそれを量子力学に引き寄せつつ、もう少しこの根源的な部分、つまり、映写機の仕組みについて書いてみます。さっきの2つの記事は、映写機から映し出された世界=スクリーン=映画館について書いたわけですが、今回はその映し出す仕組みそのものについてです。

 今では専門家以外あまり参照されることも少ないようですが、木村泰賢さんというアビダルマ研究が専門のスゴイ仏教学者がいました。

 この方が、仏教の映写機モデルを作った人で、これほどどんぴしゃりに仏教の時間論、特に世親の『倶舎論』の時間論、世界の存立構造論を説明したものはないのではないかなと思います。

 これだと、仏教が量子力学と、そして、なかんずく、エベレット解釈と極めて親和的であることが見事に説明できます。感動です!こういうスケールのでかい仏教学者が今はほとんどいなくなってしまった。

 どういうことかというと、こういうことです。


映画館モデルも面白いが、映写機モデルはもっとすごい(゚0゚)

 映写機が映画を映すマシンであることは当たり前なので、この世は仮想現実だっていうことを映画館に、そして世界を出現させている仕組みを映写機に例えることは凡人でもできると思います。木村さんがすごいのは、映写機のリールに注目したことです。

 ここでリールのでかい方を未来と考えてみて下さい。そして、リールは巻き取られて、小さい方に回収されていきます。これが過去です。

 そして、黄色い部分、つまりその間に挟まれた部分が現在となりますね。

 上の世界で準備された映像は一コマ一コマ、刹那(1刹那は現在の単位にすれば 0.013秒ぐらい)の世界でコマ送りされます。


上のリールから未来がコマ送りで降ってくる

 このかわいい小学生のイラストで言えば、跳び箱を飛んだ瞬間を見ているとすれば、左の三コマが上のリール。右の飛び終わった後の2コマが下のリールになる。

 リールの上にある状態は、存在論的に言えば、本質としてはそこにあるんだけど、まだ現存在として存在(da-sein≒Dasein)していない。様相論理学的に言えば、可能世界としては命題化しているけど、まだ真偽判定できていないと言える。

 仏教的に言うと、未来の法が現在へと移行してきて作用する、と言えます。ちと難しく言うと量子力学の位相(数学用語)的なものが「落謝」(仏教用語)すると言えるでしょう。

厨二病=決定論にはならない、人間は望む未来を自由に手にすることが出来る



 と言ってもこれは厨二病=決定論にはならないです。人間は望む未来を自由に手にすることが出来ます。そこは気になるところなので、やや詳しく解説します。

 普通私たちは、過去の自分が現在を作っていると考えますが、量子力学や仏教では時間は未来から(上のリールから)流れてくると考えます。リールの上の世界には、すべてのストーリーがすでに書き込まれているので、これは一見すると、未来においてすべてのことが決定されている決定論になります。

 じゃあ、全部運命は最初から決まっていて、人間は単なる操り人形なのかというのが古来より決定論を巡る議論になるわけです。


 決定論は頭悪い人がたいてい一度はハマります。ハマって抜け出せないおバカさんもいますね。

 あらゆる事象の生起と帰結が前もって決定されているとする立場。英語ではdeterminism。キリスト教の預定説(決定の主体は神)が宗教上の,デカルト=ニュートン流の力学的・機械論的決定論(決定の主体は自然法則)が哲学・自然思想上の決定論の代表。後者の極端な主張は〈ラプラスの魔〉の名で知られる。〈ある瞬間に宇宙の全原子の位置と速度を知りうれば,末来永劫にわたって宇宙のありさまは解析学の力で知りうるであろう〉。

 人間の自由意志との調停は古来大きな問題であり,量子力学の出現(不確定性原理)によってもこのような一義的決定の不成立が明らかとなった。
→関連項目因果関係運命論

 もちろんそんな厨二病的な考えは、仏教も量子力学も採りません。

 未来が現在においてどのように決まるかは、仏教でも量子力学でも確定していません。これを仏教では「未来雑乱住」と言います。

森羅万象を形成するための要素的存在として70ほどの法(ダルマ)を想定し,これらの法が過去・未来・現在の三世に常に自己同一を保ち実在するが,我々がそれらを経験できるのは現在の一瞬間にすぎない,という主張である。すなわち未来世に存するさまざまな可能性をもった雑乱住の法が現在に引張り出され,そこで一瞬間我々に認識され,次に過去に落謝する(去る)という。このように我々は映画のフィルムの各こまを見るように,瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと唱え,諸行無常を説明するのである。

 この仏教用語よりも、量子力学の方の言葉の方が人口に膾炙していると思います。つまりこれです。

 どちらも、未来にシナリオらしきものはあるけれど、それがどのような形で現在に切り結ぶかは決定されていないとします。つまり、決定論は完全に否定されています。

 つまり、上のリールはNetflix状態になっており、いろんな映画(ストーリー)が入っているのです。

 より正確には、ストーリーも決まっていないシーンの断片が入っていて、それで映画のストーリーそのものを作れる(ゲームプレイヤーではなく、ゲームの制作者になれる)、と言った方が良いのですが、簡略化のためにいちおう、こういう説明(Netflix状態=完成映画がいっぱいある)にしておきます。

より正確にはこういうことなんだけどね(またいつか別記事にするよ)


 さらにそれを人間が「ガチャ」すると、ぽんと現在が出てくる。これが、仏教及び量子力学の時間イメージです。


 ガチャひねった瞬間に決まる、現在の一刹那前の段階を仏教用語で「正生位」といいます。ほんと、仏教ってすごいよなー。ガチャってのがいずれ日本で流行るとかお釈迦様は知っていたんじゃね?(笑)

 さあ、運命出てくるぞ。ガチャひねってあのガチャマシンの出てくるところが引っかかって、ちょっとひねる利き手が少し重くなったあの瞬間が「正生位」ですね。

 正生位はドキドキします。

 そしてもし外れだったら……。

まとめ 生きることとは可能性という名の軍資金が無限にあるガチャ遊び


 この世は用意されたフィルムしか上映できない映画館であると考えると、決定論になってしまいます。でも人間は映写機を自由に回すことのできる存在でもありますよね。人間の可能性(物理学でいえばエネルギーは)は無間だから、映画だっていくらでも仕入れることが出来るのです。そう考えれば、人間は何度でもやり直しが出来るのです!(可能性という名の軍資金が無限にあるガチャ遊び状態

 なんだか気分が楽になりますよね!(^▽^)

 すごいです!(゚0゚)

 これが、仏教的な時間論であり、エベレット解釈的な量子力学の世界です。

 とても楽しい世界ですよね(^~^)。

 というわけで、動画を準備しつつ、こっちでもまた何か書いていきます。動画で、今回の記事の内容はかなりしんどい。やっぱ動画とnote連動が良さそうです。



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