見出し画像

「オッサンの放物線」 #3イカの隙間へ

~連続しょうもな小説~
「オッサンの放物線」 第三話 イカの隙間へ

2023年1月1日

昨夜はあんなことがあったので、あまり眠れなかった。
嘘…。
けっこう寝た。
夜、酒を飲みながら「悲しみよりもっと悲しい物語(台湾版)」のDVDを観た。
この半年間でおそらく25回は観ただろう。私はそういう種類の変態だ。
最近では聞き取れる中国語もかなり増えてきた。
ほらー。もうすぐ祐賢「ハオチューブーチェン」言うでー。
「好久不见」
ホラ言うたー。ケケケ。
てな具合で、楽しみ方が変わってきている。
ひとつも「悲しく」ない。
まあ、それでいい加減に酔っ払ったところで眠った訳である。

毎年元旦は家族で私の実家へ行く。
「明けましておめでとうございま~す。」
母はもう料理がほとんどできないほどに年老いているので、ウチのおせち料理は姉が完全に再現して持って来てくれている。
「子供の頃はおせち料理なんて、いっこも美味しいと思わんかったけどな。」
煮しめや昆布巻き食べながらの、この会話も毎年恒例だ。
父が生きていた頃、このあと必ずする話があった。
「餅つきの話」だ。

父が子供の頃、毎年年末に近所の人が集まって餅つきをしていたらしい。
どこにでもある話だ。
ある年、いつものように大人の男性が餅をついて、お婆さんが合いの手入れて餅をひっくり返していた。
寒い中の餅つき、その時お婆さんの鼻から青鼻が垂れた。
鼻水はそのまま餅と一緒につかれてしまったとさ。
おしまい。

大好きな餅をその年は一つも食べれず、大人たちに何故か聞かれても何も言えなかったらしい。よっぽど残念だったのだろうが、毎年正月に餅を食べているときにその話をする事に皆閉口していた。
そう言えば父の子供の頃の話で私が知っているのは、この「餅の話」と「闇市の話」だけだ。「闇市の話」は父が直接私に話したのではなくて、母に話しているのを横で聞いていたのだ。その話を聞いたのは小学校低学年の頃で、深夜だったと思う。なぜ私も起きていたのかは忘れてしまった。話の詳細もあやふやだ。

戦時中、もしくは終戦直後の食糧難の頃。
小学生の父は祖父(父のお父さん)と汽車に乗って闇市へ行った。
たくさん食料を買って帰りの汽車に乗ろうと駅に入ったところで、祖父は警察(憲兵?)に捕まってしまった。
少し離れた所に立っていた父に、祖父が「こっちへ来るな!」と目で合図したらしい。
しかし、まだ小さな子供だった父は不安になって祖父の元へ駆け寄ってしまった。
それで父の持っていた食料も警察官に没収されてしまった。
帰りの汽車の中で、父は祖父に怒られるだろうと思っていた。
でも一言も怒られることはなかったそうだ。

この話を聴いて母は黙ってボロボロと泣いていたのであるが、子供の頃の私には何が悲しいのかサッパリ解らなかった。
いや、大人になっても「泣くほどの話ではないだろう。」と思っていた。
ただ泣いている母の姿が印象的で、この話をずっと覚えていたのだ。
しかしあと5年ほどで子育てが終わる今になって、この話が胸に詰まる。
食べ物が無くて、汽車に乗って闇市へ行って、たくさん買い物して、没収されて、手ぶらで汽車に乗る、父と子。

私はイカの塩焼きを眺めたまま、そんな話を思い出していた。
子供の頃、正月ってもっと賑やかで楽しかった。親戚いっぱい集まって…。
今は少しだけもの悲しい。
今この家には私の家族5人以外は、母と兄だけだ。
母は子供たちに一人ずつ「あんたは何年生になったん?」の無限ループを繰り返しているし、兄はみんなにお茶を配ってくれたりして大人しい。

やっと私が口を開く。
「しかし、このイカもいっつも入っとったけど、こんな美味しい思わんかったけどな〜。」
誰も返事しない。
ただ真っ白な板状のイカに網目に切れ目を入れた塩焼きだ。
でも、絶妙な塩加減だ。
噛めばさらに旨味が拡がる。
表面に塩を振っているだけではないのか?
イカの内部にまで塩味を付ける方法があるのか?
海の味か?
いや違う違う。違うやろ。
誰かに聞こうにもコレを作った姉は、既に旦那さんの実家の京都へ向かった後だ。
母に聞こうかと思ったが、この人は私が「美味しくない」と思っていた頃のおせちを作っていた人だ。しかも今彼女は、兄と「これは箱根駅伝か?」「いや、実業団駅伝やで。」の無限ループに入ったところだ。

どうやったら、こんな美味しく焼けんねやろ。
この網目が良いんやろか?
私はイカの網目状の切れ目を覗き込んだ。
そして…。

真っ逆さまに、イカの網目に転落したのだった。


つづく。


この記事が参加している募集