無税国家は可能か?

MMTの骨格は負債貨幣論である。負債貨幣論(信用貨幣論)とは、元手がなくても発行元が信用される限りに置いてお金を発行できるという考え方である。そこで「税は財源ではない」という説明がなされるのであるが、すると「無税国家が出来てしまうではないか!」なる批判が発生する。しかし、MMT側は租税貨幣論なるものを持ち出して、租税が貨幣を駆動すると説明をし、租税に
①通貨量の調整機能
②格差是正機能
③罰金・制限による行動誘導機能
の3つの機能を認め、租税の必要性を説いている。しかし、負債貨幣論が文化人類学の成果を取り入れ、太古の人類から行われた制度であると明らかにしたのに比べると、租税貨幣論は単なる補助的機能として紹介されているように思える。そこで本稿では、租税の起こりを人類学的に考えていくことを目指す。多くの論拠をマーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか』に寄っていることは予めご了承願いたい。

国家とは

本書によれば、人間社会の特質は匿名性にある。匿名な人々は、同一社会に属すると認識するために互いに共通した"しるし"(言語や入れ墨など)を持っている。そして、定住後に共同体の中で専門化・分業化が起こって、相互に供給力(食料や物品・サービスを他者に提供することを今後「供給」と称することにする)を依存し合うようになった。国家とは、そういった社会を複数に跨って支配する存在である。別々の社会を、さらに上位の国家が統合するたった一つの根拠が、政府という存在による暴力である。そして国家はその暴力性によって、供給力を収奪することが出来た。一方、被支配者層にとっても、その暴力性に帰属すること自体がアイデンティティの維持に役立った。
それまでの社会はただ同じ共同体の他者に自らの供給力を差し出し、役に立つことで成り立っていた。しかし、政府による暴力的な供給力の収奪は、インフラストラクチャーを形成し、国民生活を向上させるのに一役買った。こうして国家による社会資本が作り上げられ、国民は国家を信奉するようになった。また、供給力の収奪と分配によって効率的な生産が行われて、「非労働者階級」とでも言うべき特権階級が誕生した。これが神官である。

供給力とは

ここで国家が徴収した供給力について考えたい。最初に抑えられた供給力は、人の労働力と天然資源の二つである。労働力を徴収する、素材の産出地から出てくるものを持ち出す権利を独占すると言ったことが行われた。すなわち初期段階の徴収は
①天然資源徴収
②労働力徴収
の二つであったと考えられる。そして、特権階級の出現によって、彼らが生産物を生み出さなくとも食を得るために、あるいは不作時における貯蓄として
③労働生産物徴収
が行われるようになったと考えられる。また、政府が労働力徴収によってインフラストラクチャーを作らせた際、そこで労働する人々の食料も必要となってくる。こうして労働生産物徴収は一般的な供給力の収奪として定着していった。

負債貨幣論と租税貨幣論の融合

①の天然資源徴収については国民は権利を制限されるだけにすぎない。
②の労働力徴収を国民全員に適用することは出来ない。移動の距離や仕事の分業・専門化といった観点から、一部の国民からは②の形で労働力を徴収し、多くの国民からは③の形で労働生産物を徴収する形が効率的である。
そしてそれを強制する国家権力による暴力的な収奪の結果、国民はアイデンティティ・帰属意識を持つことが出来る。
しかし、ここで②労働力徴収と③労働生産物徴収の国民を峻別する必要がある。そうやって出来たのが②労働力徴収に対する「労働生産物免税券」である。要は②労働力徴収に応じた相手にはチケットを手渡す。全国民に③労働生産物徴収を実施する際、そのチケットを差し出しておけば、②労働力徴収の応じた人間は労働生産物徴収を免れることが出来る。こうして国民は労働力か労働生産物かのどちらかを政府に差し出すという事ができるようになった。
そして、ここで支払われるチケットが、貨幣であった。古代エジプトのようにそれは帳簿で管理されたケースもあるし、①の天然資源徴収で得られた貴重な素材(金)が加工されて用いられることもあった。そして政府が独占していた天然資源を、加工したとはいえ国民に流通するのだから、それを獲得することができた国民はその天然資源加工物を支払うことで、他者に対してその供給力を提供させることが出来た。
逆側から見れば、労働力を他者に供給した者はチケットを獲得し、それを納税することができるようになった。結果的には労働力の一部を間接的に政府に差し出していることになる。これが
④労働成果物徴収
である。政府から見れば②労働力徴収において発行した貨幣が市場に流通し、それを民間における相互の労働力供給が発生した際に支払われたチケットを一部徴収しているということである。
②労働力徴収、③労働生産物徴収、④労働成果物徴収のいずれもが、直接間接を問わずに労働力を政府が徴収するという形である。
そして働かせることで、供給力を互いに維持し、様々なサービスを貨幣で購入する形で国家内の様々な社会インフラは存在している。
形をどう変えようが政府は国民から労働力を暴力的に徴収している。その暴力性によって国民のアイデンティティは成り立っており、互いに労働力を提供し合う形が維持されている。仮に労働力を徴収しない国家があるとすれば、それは①の天然資源徴収で賄いきれるということである。現代においてそれが成り立つ国家は、石油資源の絶えない地域以外にはあり得ない。
だから無税国家は可能かと問われれば、現状の観察では不可能であるとしか言えない。政府が暴力性を発揮しなければ国家は維持できず、国民は政府から暴力を受けなければアイデンティティを保てないからだ。
税は財源ではない。ただ、国民を働かせるために存在しているものである。逆に言えば、緊急事態において国民を働かせないようにするためには免税と補償が必要となるだろう。

非労働者階級の行方

さて、ここで問題になるのが現代の「非労働者階級」の存在である。現代では、より効率的な生産によって、古代とは比べ物にならない割合の「非労働者階級」を養うことが出来るようになった。しかし、政教分離がなされた現代国家では、神官は存在しない。現代ではここで余った「非労働者階級」の枠が、生活保護受給者、障害者、老年者などに宛てられているのだ。
そんな「非生産階級」が政府による暴力的な徴収を受けずに国家に帰属意識を保てる心理学的理由などについては今後の課題としたい。

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