⑨「ひかりが私にくれたもの」 - 胞状奇胎という流産の先に見つけた幸せ-
第8章: 見えていなかったもの - 小さな幸せへの気づきと認識-
「自分を幸せにする『コツ』があるなら、それを見つけたい。」
私は「ひかり」と名付けた赤ちゃんが教えてくれた命の儚さを胸に、
幸せを探すための一歩を踏み出した。
本を読み漁り、
ネットで関連する単語・記事を調べ、
目に止まる情報は片っ端から試した。
だけど、
どこかで空回りしているような感覚が拭えなかった。
そんなときだった。
偶然出会った心理学コーチとのやり取りが、私に新しい視点を与えてくれたのは。
彼女も同じ薬剤師で、キャリアや子育てに悩んだ経験があるという。
初めてのオンラインセッションで、彼女は静かにこう言った。
「今まで、すごく頑張ってきたんですね。
一生懸命で真摯な人柄が伝わってきます。」
その一言で、私は心が少しほどけるような感覚を覚えた。
彼女は続けた。
「昔から持っていた理想を叶えたはずなのに、苦しい。その気持ち、とても分かります。
でも、それはあなたが悪いわけでも、ダメなわけでもありません。
ただ、あなた自身の思い込みが、あなたを苦しめているんです。」
「思い込みが、私を、苦しめている……?」
その言葉に引っかかりを覚えた。
「…もしかしたら、私の中の『思い込み』が、幸せを感じる『コツ』なんじゃないか…?」
信じても、いいのかは、わからない。
でも、
「思い込み」があるなんて、今まで考えたこともなかった。
この人は、私を認めてくれた。受け入れてくれた。
この人は、私が見えていない何かに気付いていて、
何かを引き出してくれるくれる、
そんな気がする。
そう思って、セッションを受けることにした。
「『心理学』なんて、気持ちの問題でしょ?」と思っていた私にとって、
かなり思い切った決断だった。
コーチとのセッションを重ねる中で、
私は自分を縛っていた思い込みに気づき始めた。
特に大きかったのは二つ――
「完璧でなければならない」
「人が信じられない」
私はずっと、自分だけで全てをこなさなければならないと思い込んでいた。
誰かに頼るのは弱さだと感じ、
仕事も、育児も、家事も、
全部自分でやらなければ意味がない、やるのが当然と、考えていた。
でも、
「ほんとにそう??」
私、そんなに器用じゃないんだよ。
いっぱい、いっぱいだったんだよ。
新しい視点を得て振り返ると、
その思い込みがどれだけ自分を追い詰めていたかが分かる。
自分自身によって。
さらに、感情に正直でいることの大切さも教わった。
「怒りという感情は、第二感情なんですよ。
二次的に現れている感情です。
その奥に隠れている第一感情
――寂しい、悲しい、怖い。嬉しい、楽しい、幸せ――に目を向けてみてください。
第一感情を感じ切って、癒すんです。」
最初は全く分からなかった。
どうして怒りが湧くのか?
怒りは怒りであって、別に寂しさなんて感じないと思った。
私が何を感じているのかが、分からなかった。
だけど、
セッションを重ねる中で少しずつ見えてきた。
例えば、
夫が、「コップがあるけど?」と言うとき、
私は「なんで、片付けないの?ありえない。」と夫に、責められているように感じていた。
家にいるのに、片付けができていない罪悪感があった。
片付けていないことを指摘された、怒られていると思っていた。
でも、コーチはその裏の気持ちを私から引き出してくれた。
家にいるのに何もできていない自分が、情けなくて、、、悲しい。
夫は,わたしが家事育児でどれだけ大変だったかわからず、片付けていないといわれて、、、わたしの努力をわかってくれなくて、寂しい。
今日も何もできなかった、無力で無価値な自分と思われていそうで、怖い。
「夫に責められている」
そう捉えて、自分がいかに大変だったかを強く訴えて、、、泣いていた私。
怒っていた私の気持ちの裏には、、、
頑張れていない、
ちゃんとできていない自分に対する…
たくさんの
悲しさ、寂しさ、怖さ、、、
ネガティブな第一感情があったのだ。
「責められているとうのは、単なる思い込みじゃないか…!?」
そう仮定した私は。
勇気を出して、夫に聞いてみると、
…実際に、ただの確認だった。
なんなら、
「僕が片付けようか?」という、
優しい提案を夫はしてくれてようとしていたのだ。
責められているどころか、
労われていた。思いやってくれていた。
ただ,
私が受け取っていなかっただけだった。
このように、「私が作り上げた思い込み」が、
自分を苦しめていたことに、
私は少しずつ気づいていった。
さらに、夫の行動を見つめ直すと、
彼の家事や育児への手助けが、
私への愛情表現であることにも気づいた。
「義務感でやっているだけ」と決めつけていたけれど、
彼は、私が、家族が、
快適に過ごせるようにと、一生懸命考えて行動してくれていたのだった。
口に出して「愛してる」とは言わなかった。
言えなかっただけで。
そして私は、その行動を、愛情だと受け取れていなかっただけだった。
この気づきは、私の心を少しずつ軽くしていった。
半年間のセッションを通じて、
私は自分の思い込みを少しずつ手放すことができた。
「完璧でなくてもいい」
「私は十分に愛されている」
これらの気づきは、私にとって新しい幸せの入り口だった。
あるとき、コーチがこんなことを言った。
「自分を幸せにする『いい思い込み』を持つのはどうですか?」
私はその言葉に救われた気がした。
「私には無条件に価値がある」
「私はどうせうまくいく」
いい思い込みを持つために、私は通勤中、自転車を漕ぎながら、小さい声で、この言葉を唱えるようにした。
ある日。
夜寝る前に電気を消すと、
子どもたちが「ママ、大好き!」と、左右それぞれから、抱きついてきた。
何かをしてあげたわけではない。
私はただ一緒にいるだけ。
そのとき、
私は初めて彼らの言葉を真っ直ぐ受け取れた気がした。
「そうか、私は、愛されているんだ。」
子どもたちの笑顔、夫の優しさ――それらはいつもそこにあった。
でも、私はそれを感じ取ることができていなかった。
…余裕を失っていたから。
本当は、そこに、ずっとあったのに。
小さな幸せが見えてきて、
心が少しずつ満たされていった。