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⑦ 「ひかりが私にくれたもの」 - 胞状奇胎という流産の先に見つけた幸せ-

第6章: 幸せって何?全部持ってるし、やってきたはずなのに、わからない

「幸せを探そう。」
そう心に決めたのは、手術後ベッドの上の、静寂の中だった。

失った命の悲しみ。
人にいうこともできず、寝込むほどではなかったけれど、ずっと悩まされていた体調不良。育っていると信じて耐えていたのは1ヶ月。
にもかかわらず、手術は、たった10分で終わって消えてしまった命。
ここからは、1年間の経過観察と、発ガンリスクが残る。
記録という意味では、「命」とはカウントされないのかもしれない。
でも、その存在によって、少なくとも私は、体調不良という形で大きな影響を受けたし…
希望の光を確かに、感じていた。
それなのに一瞬で消えてしまった存在。

遠くから聞こえた他の誰かの希望、新しい命の誕生を知らせる産声は、私に「命」について考えるきっかけを与えた。そして、頭の中に浮かんできたのが次の問いだ。

「幸せってなんだろう?」

それまでの私は、幸せが何かなんて深く考えたことがなかった。

学生時代の私にとって、
幸せは「安定した資格をとって、資格を活かして働くこと」だった。
そのために必死で勉強し、大学に入り、薬学部で資格を取った。一つの目標が達成でき、自分が幸せの道のりのスタートを切ったと思った。

もう一つ、幸せな人生に不可欠だと思っていたことが、家庭を築くこと。
実は中学生の頃から、
「30歳までに結婚して、第一子を授かりたい」という夢を持っていて、親や親しい友達に言っていた。
この夢のために特に努力したわけではないけれど…願っていたら、その通りに人生は進んだ。29歳で夫と結婚し、30歳で長男を出産。2年後に次男も誕生した。

そして、「子供が生まれたら,子どもに寄り添いたい。」とも思っていた。育休や仕事に復帰した時もあったが、家庭優先で、ほぼ専業主婦。
家族を支える生活だった。
…これも、理想通りの幸せを手に入れたはずだった。


けれど、心はモヤモヤとしていた。


資格を取ってキャリアを積んだ。
予定通りのタイミングで結婚して,子供にも恵まれた。
夫は協力的で、周りからも「理想の夫」と言われるほど。
可愛い二人の息子もいるし、子どもに寄り添う専業主婦にもなれた。
本来なら、これ以上ない幸せを感じているはずだった。

なのに、私は満ち足りていなかった。
毎日疲れ切っていた。
大きな幸せは、感じていなかった。

時間があるはずなのに、やることはたくさん、やるべきことに追われて、
自分の時間なんてどこにもなかった。
家事に育児に全力を注ぎ、夜には寝落ちする日々。
でも、家のことしかできていないから、何もできていないと感じる。

そして、「もっと自分を成長させなきゃ」と思い込んで、何か新しいことに挑戦しようとするけれど、そのエネルギーさえ残っていなかった。
積読になった本も数知れず。無駄。また落ち込む。

「成長していない自分には価値がない」
「今の自分じゃ、足りない」
その焦り、焦燥感に追い立てられ、私は、必死に頑張っていた。
いや、考えたら頑張っていたという意識はない。そうすること、何かを求めて、頑張ることが、当たり前だと思っていた。

そして、
「私には何もない…。私には価値がない。」
と、深く、深く思っていった。

「私は、どこに向かっていたのだろう?」
自分に問う。


「あなたは、どこを目指して、
何を目指して、そんなに頑張っていたの…?
そんなに自然に、頑張っていたの…?」

浮かんできた言葉が、
「幸せになりたい」だった。

「幸せ」って何?
「幸せ」について考えれば考えるほど、私の中に疑問が積もっていった。
今まで「幸せ」と思ってきたことは、何だかんだで叶っている。

形にしてきたものはたくさんある。
仕事も、家庭も。


「私は、幸せについて、何か、勘違いしているのかもしれない。」

私は答えを見つけようとして、本を読み漁った。
幸福学、ポジティブ心理学、アドラー心理学……ありとあらゆる情報を調べた。

「幸せとは成長すること」
「他者に貢献すること」
「幸せの源は健康や人間関係」
「感謝やポジティブな思考が大切」

本の中に散りばめられた言葉はどれも魅力的だった。
でも、どれも私を完全に納得させるものではなかった。
読めば読むほど、私は混乱していった。

それでも、一つだけ確信できたことがある。
「幸せは、ただ頑張るだけでは手に入らない」
目標を叶えるだけでも、家族がいるだけでも、それだけで十分ではないのだ。


たくさんの言葉に出会う中で、
私の胸に刺さった言葉があった。

「幸せは努力ではなく、受け入れることで手に入る。」

私は、努力をやめることが怖かった。
努力しないと、自分には価値がないと思っていたからだ。努力して、何かになる、成し遂げないと価値がないと思っていた。

でも、本当にそうなのだろうか?

私は、必死に頑張ってきたのに、
それは、幸せに繋がらなかったじゃん!!!

でも、「受け入れる、感じる」と言われてもよくわからない。
だって、いろいろ持ってることには気づいて、認めてるよ?
幸せについて考えれば考えるほど、私は迷子になっていった。


けれど、そんな中でふと頭をよぎったのは、息子たちの笑顔だった。
「ママ、大好き!」と無邪気に抱きついてくる彼ら。
忙しい日々の中で、私はその笑顔をどれだけ見ていただろうか?
彼らの声をどれだけ聞いていただろうか?

気づけば、
私はいつも彼らを「もっと良くしてあげたい」と思い、自分の目標を追いかけていた。彼らのために、私は何をしなくてはいけないか、何をするかを考えていた。
でも、彼らは今、この瞬間に、私に精一杯の愛を伝えてくれている。私が何かしてるとか、してないとか、関係なく。
いやむしろ…認めたくないけど、
何もしていない時、
ただ一緒にいる時に、喜んでないか??

「私が探している幸せは、もしかしたら、すぐそばにあるのかもしれない。」

ぼんやりと浮かんだその考えが、小さな希望の光のように感じられた。

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