掌編小説「水と油」
「モモ、あそこ見て、もしかしてウグイスじゃないかな」
百枝は10歳年下の修二の声を耳元で聴きながら、このいい声がこの男の最高の魅力だと女達が認めていることを理解した。
「あれはメジロだと思うよ」と、百枝はそっけなく訂正してみせた。
修二はおだやかに、
「実は嘘をつきました。ごめんなさい」と言って笑った。
「謝る気なんてないくせに」と百枝も笑った。
二人はバードウオッチングの趣味が元で公園で出逢った。
「シュウちゃんは鳥だけじゃなくて人間も好きだよね」
「モモが人間不信すぎるんだと思うよ」
「そうだけどね、鳥は好きだよ」
「俺は好きだよ」
「そうだね、人間を好きにならないとね」
「もっとモモは自信もっていいと思うよ」
「そうだね」
「モモは優等生だからすぐに『そうですね』って言うけどさ、やることは違うよね」
「ごめん」
「謝る気なんてないくせに」そう言って修二はほがらかに笑った。
「言われちゃった」と百枝も笑った。
冷たい風の吹く公園に二人で同じ鳥を見て回ることは百枝の心に恋心を抱かせるのに十分だった。
けれど、修二は百枝に自分の情事やハードボイルドな出来事を語ることが多かった。
百枝は予防線を張られているように感じて寂しかった。
ある日、ベンチに二人で並んで座り休んでいた時につい聞いてみた。
修二は百枝に買ってもらった双眼鏡を大事そうに持ちながら、
「俺はモモに尽くすことはできないし、これからもできないから、モモが喜んでくれるならどんな話だってするつもりだよ」
「それは嬉しいわ」
「モモは俺の話を聞いて、目を輝かせて笑顔になって、腹の底から笑ったりしてくれるから、こちらも楽しいよ」
「ねぇ、私達の関係って何だと思う?」
「身体の関係が無いと知ってる友達からは男と女の関係だって思われてる」
「え?逆じゃないの?」
「男と女がこうして身体の関係無しに続くことが信じられないと言われたよ」
「つまり、実は身体の関係はあると疑われているのね」
「そうだね」
しかし、百枝はこの場面で(それじゃあ私達してみる?)とは言えない女だった。
「今晩、お酒でもどう?」と誘うのが精一杯だった。
どこかでアカゲラが木を叩く音が聞こえていた。
「俺ってモモからしたら幼いと思う。モモには包容力のある年上がいいと思うよ」
修二にずばりそう断られたにもかかわらず百枝は鈍感さから気がつかないまま二人の関係はずるずると続いていた。
百枝にとって修二はいつしか執着の対象になっていた。
メールの返事が遅くなると、変な文章を送ってしまったのだろうか、それとも修二の機嫌を損ねる内容だったのだろうかと不安で居ても立っても居られない状態になっていた。
返事は必ず来ており、しかも遅くなったことを詫びてもくれていた。なのにどうしても百枝は修二の言葉を信じられなくなっていた。
「モモが人間不信なのはわかっていたけれど、ここまでとは思ってなかったから正直なところ困ってる」
そう修二は切り出した。
「シュウちゃん、治すように頑張るから、お願い」
百枝は引き留めようとしたが、修二の落胆は激しく、怒りに変わったようだった。
「もう友達としても無理だよ。俺のこと信じてくれていないのは大切にされていないと感じるよ。それに俺はモモが変わらなきゃいけないとは思っていないから。ただ素直に甘えて欲しいだけなんだ」
「どう甘えていいのかわからないのよ」
「それはモモが年上なのだからリードして欲しかったなあ」
「ごめんなさい」
「許す許さないという問題ではないよ。モモが俺といて幸せかどうかなんだよ。俺はモモを幸せにできないよ」
「そんな、もっと自信持ってほしい」
「いや、もうすっかりトラウマだよ。俺、女の人、一生幸せにできる自信無くしたから」
「そんなに困っていたのね」
「ねえ、モモ、本当に俺のこと、好きだった?」
どんなに喜びの水を容器に満たそうとも、怒りの油が一滴でも落とされるとべとべとになるように二人の関係は深まることなく終わることになった。
百枝はいつかのウグイスのこと、どうしてメジロだなんて答えたのだろうと悔しく思った。
嘘をつかれても、信じられればよかった。
「本当だ、ウグイスだね」
「嘘だよ、メジロだよ」
「もう!嘘つきなんだから」
そんな他愛のない嘘をついている、純粋な人だったと百枝は思い、ひっそりと泣いた。
ホーホケキョ、とどこかから聞こえてきた。
季節は変わっていた。
(了)