毒親である両親の金婚式によせて
私のことを心理的・身体的・教育的(たまにセクハラも)虐待をしてきた毒親である両親の50回目の結婚記念日になりました(2020年1月25日)。
二人のなれそめは、父から聞きました。
ソシアルダンスという二人ががっつり組んで踊るダンスがあるのですが、当時、そういったダンスの会場にいた21歳の公務員として新潟の実家から東京へ上京してきた母と、東京生まれ東京育ちで日立系列の会社員だった23歳の父が出会い、恋に落ちたそうです。
今だと、クラブハウスでウブな男女が恋に落ちたようなもの、とも考えられますが、私の両親は処女と童貞を結婚するまで貫き通したらしいので、一緒にするのも違うなと、思ったりもします。
父が母との結婚を意識するようになったきっかけは、ふたりの待ち合わせの約束をすっかり忘れていた父が約束の時間の6時間後に思い出し、あわてて待ち合わせ場所に着いたところ、母がずっと待っていたということがあり、「彼女は本気なんだ」と思ったのだそうです。
こういうのを聞くと、今だとLINEなどで呼び出したりできるので、待ち合わせ場所に6時間待たされることは無いと思いますが、そういった「不便さ」や「自分のために我慢をしてくれる」ことが、「自分を大切にしてくれてるのだ」という実感を得られる体験になっていたというのは興味深いと私は思いました。
父が25歳で母が23歳の時に結婚。一年後に私が生まれたので、今でいうハネムーンベビーに近いのかな、とも思います。
母は父方の祖母(母からしたら姑)に、かなりいじめられたようです。
父方の祖母は、戦時中に満州から伯父と父を連れて日本に帰国してきて、東京で下宿屋を営みながら兄弟を育てた女性です。短歌・俳句、詩を書き、水墨画を描き、それを外国人観光客の来る店で販売したりと、さまざまな活動をしていた人でした。
当時は自然分娩だったので、今のように陣痛促進剤などありませんから、私のように予定日の一か月後に産まれることもあったようです。私はきっと、お腹の中で聞き耳立てながら、父母と祖母のいさかいにうんざりして、外に出るのを嫌がったに違いありません。「離婚の話が出たら、あんたがお腹の中にいたのよ」と母に言われたことがありました。
母は妊娠中毒症になっていましたが、24時間以上もの痛みに耐えて、私を産んでくれました。産まれたばかりの私と若い母との2ショット写真が残されています。はっきり言って自分でも私は可愛くない赤ちゃんだなと思いますが、母は私の新しいしぐさのひとつひとつをカメラに収めてアルバムには日記のように「今日ははじめてはいはいをしました♡」とコメントがついているのが残されています。
私は確かに愛されていたのだと、望まれて産まれてきたとアルバムを見ると思えます。
そのころの父は日立の会社員を辞めて、伯父の会社に転職していました。母は公務員を寿退社していて専業主婦でしたが、はじめからなんかしらアルバイトや内職などしていた記憶があります。「俺の稼ぎは悪くはないはずなのに」と父は当時を思い出すたびにぼやくこともありますが、母としてはせっかくの公務員としてのキャリアを失い、結婚してから女遊びを覚えたような夫に気が気じゃなく、もしものためにブランクを作るのが怖かったのかもしれないと、今なら私も思えます。
意外なことに、両親が喧嘩しているイメージは私には残っていません。どちらかというと、父に向かう不満は私を責めることで解消していたのではないだろうかと、今は思いますが、真実とは断言できません。
3度の離婚の危機を乗り越え、今日(2020年1月25日)に結婚50周年を迎えた両親を誇りに思います。
今日までいろいろありました。伯父は会社を作っては潰す人で、父は11社以上もの会社を手伝い、常に母はついていっていました。自営業でも平気な父に比べると、安定志向で公務員だった母のストレスは大きかったと思います。それでも、結局のところ、母は父のこと大好きなのだろうと思います。
その母も、近年では病気がちで11回もの手術のために障害が残り、現在は身障者1級要介護4の状態になりました。父は後期高齢者になってもバイトにはげみ、毎日のように母のお見舞いにでかけていきます。家にいるときは、昔のアルバムなど引っ張り出しては、「おかあさん、かわいかっただろ?」と私に見せにきます。気が付けば、サイドボードの上には、かつてのソシアルダンスのドレスを身にまとった母の写真が置かれています。
母はおしめをしている状態です。漏らしたうんちのついたズボンを父がゴム手袋をはめて洗ったりしています。
一時など、思いつめたあげく「お母さんが死んだら自分も逝くから」と私に告げるなとしていましたが、最近は近隣住民の協力もあり、大分明るくなってきました。母も気丈な人なので、手すりにつかまって歩けるまでリハビリで回復してきています。
私には妹2名います。それぞれに「ちょっとー!もうすぐお父さんとお母さんの金婚式だよ!」と知らせました。てっきり1月27日だと思い込んでいたのですが、25日だと知ったのは、前日のことでした。
なので、私は何もできていません。「おめでとう!」しか伝えられていません。
だけど、心ひそかに思っています。
「両親がここまで離婚しないでこられたのは、私がそれを望まなかったからだ」と。
途中いろいろありました。伯父の事業失敗で連帯保証人の父に借金が残り、破産宣告をしたこともありました。あのころ、銀行預金凍結をされたり、債権取り立て業者が訪問してきたりと大変でした。
そういう人生の浮き沈みを共に歩んでくれる人がいるのって、ひとりぼっちの私から見たら、羨ましい時もあります。
お父さん、お母さん。金婚式おめでとう!
これからも病める時も健やかなる時も、貧しい時も富める時も、ふたりで手に手を取ってダンスを踊れるふたりでいてください♡
2018年の暮れに、私は今一生氏の「子ども虐待防止策 講演会」を行いました。その際に、両親も応援してくれました。
母は自分がいかに私へ「お前は何をやってもダメな奴だ!」と言うことが常態化していたか理解をしてくれました。
父は毎月一回、保健所で精神保健福祉士さんと面談をする中で、自分の心と向き合うことを重ねてくれています。
虐待サバイバーと呼ばれる、親からなどの虐待を受けても生き延びた人たちからは、「あなたの両親のようなケースはレアだし奇跡だよ」と言われます。
私は自分の中に、かつての両親から受けた毒が積もっていることを自覚する時も多いのですが、解毒はなかなか難しいです。
「あなたが大切にしたい人は誰ですか?その人をどうしたいですか?」
そう問われた時に、真っ先に母を思い浮かべてしまう私はマザコンだと思います。
私の幸せは、きっとこの夫婦の行く末を見守れることにあるのかもしれません。
お父さん、おめでとう。
お母さん、おめでとう。
私へ、おめでとう。