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『グスコーブドリの伝記』の感想1 -ブドリの「自己犠牲」をどう読むか?

0・ネタバレを嫌う方へ

『グスコーブドリの伝記』についてネタバレ無しで書いた紹介文もあるので、そちらもぜひ読んでみてください。

『グスコーブドリの伝記』のおすすめ文 -ネタバレ無しで本作の読みどころを語る!

上記を見てから『グスコーブドリの伝記』の読んで、またこの記事に戻ってきていただけると嬉しいです♬


1・『グスコーブドリの伝記』を再読して号泣 … しかし「自己犠牲」を考えるとちょっとモヤる…

今回、数十年ぶりに『グスコーブドリの伝記』を読んだ私は、ブドリが自分の命に代えて民衆を守る決意を語るシーンで涙しました。私の涙を誘ったのは、多くの人を救うために命を落とす覚悟をしたブドリの以下の言葉です。

泣いたシーン

恐らく多くの人が感動するシーンだと思います。しかしその一方で、このシーンがあるために『グスコーブドリの伝記』は自己犠牲を賛美する話として悪評を受けることもあります。

『グスコーブドリの伝記』は1932年に雑誌掲載されており、宮沢賢治は翌年1933年に亡くなっています。この時期の日本は軍国主義を強めながら第二次世界大戦に突き進んでいた背景もあり、多くの人のために命を捨てるブドリの行動は、戦時下の「特攻」に通じる部分もあるような気がします。そのためこのシーンで泣いてしまって良いのだろうか? というモヤモヤ感が残るのも事実です。

そこでこの感想文では、私の涙を誘ったブドリの行動について自分なりに掘り下げつつ、ブドリの行動の意味を私なりに解釈していこうと思います。

※この記事自体は「感想文」として極端な深堀を避けますが、今回宮沢賢治や『グスコーブドリの伝記』を論じた文章を何点か読み、私自身もいくつかの考えを持ちましたので、その点については別の記事に記載します。

2・ブドリの「自己犠牲」の意味を考える

『グスコーブドリの伝記』は、主人公ブドリが飢饉で両親を失い、妹と生き別れになる中で、自然の脅威や人々の苦難を背景にしつつ技術者として成長し、自己犠牲を伴う行為で民衆を救う話です。

「自己犠牲」というと、かつて日本が行った侵略戦争のことを思い浮かべる人も多いでしょう。また、戦争に関わらず、現在の価値観では「全体」のために「個人」が犠牲になることは危惧されますから、展開だけ見て「自己犠牲」を賛美する作品と読み取ってしまうと、思想的に危うい物語と感じる人もいるでしょう。

この感想を書いている私自身はいかなる理由があっても戦争行為を否定し、戦時下で軍事主義のために命を捧げることが賛美、強要された空気を苦々しく思います。
また、私は個人的な活動として、日本で難民申請をしている人、日本の入管行政で苦しんでいる人達の支援をしていることもあって、命や人権を尊重しない国家や政府に強い怒りを感じてもいます。そのため、政府や国家が民衆の犠牲を求めることは「命の搾取」であり、恥ずべき事と考えています。

その一方で、私自身がブドリが死を意識したセリフで涙を流したのは紛れもない事実です。そのため、「自己犠牲」を安易に認めて良いのか? というモヤっとした気持ちもあって、この気持ちをどう扱うべきなのか、自分の中で整理できない面がありました。
私の涙を誘ったのは、「私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから」というブドリの言葉です。

そんなわけで、ここからブドリがこの言葉に込めた意味と、自分自身がこの言葉から何を感じたのかを考察していきます。

3・ブドリが命がけで守ったのは、みんなの暮らしと技術の継承

ブドリは寒波や飢饉が避けられないと知った時、火山島を爆発させて民衆の暮らしを守ることをクーボーに提案します。クーボーも事前にその検討はしていますが、犠牲を伴うことから実行の意思はなかったようです。そして、ブドリがまだ若いことや優秀な技術者であることから、その案に反対します。ここでブドリが発した「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく仕事をしたり笑ったりしていくのですから」という言葉が私の涙を誘いました。
ここまでの流れから、ブドリが不幸な子供をつくらないこと、農業で生きる妹ネリやその息子、赤髭たちを救いたいと考えたことは言うまでもないでしょう。
しかしクーボーに告げた「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が」という部分は、自分と同じように技術によって世の中を救おうとする人を指しているのだと私は考えます。
ブドリは幼少期から技術の習得に励み、赤髭の畑を本の知識で不作から救った経験を持っています。また火山局に勤めだしてからは噴火から街を守り、農薬散布の技術で多くの人から感謝されました。つまり彼は技術を身に付けることで自己実現してきたのです。

ブドリオタク道

ブドリの自己実現

ブドリは自己犠牲を伴う案を、上司ペンネンではなくまずクーボーに相談します。技術的確認の意味もあるでしょうが、教育者であるクーボーに「自分は死ぬことになるが、自分のように技術で身を立てられる人材の育成を頼む」と言いたかったのではないでしょうか? また、クーボーからペンネンにブドリが犠牲になることを話してほしい、と願い出ている点も注目です。年長者であるペンネンが、自分が犠牲になると言うこともブドリの予測の範囲だったのでしょう。
しかし、ブドリは後のフォローのためにペンネンが残るべきと語り、ペンネンも不本意ながらその主張を認めます。この会話は、ブドリが優秀な技術者でありながらも、まだペンネンには及ばないことを示しています。
ブドリは12歳で「技術」に触れて以降、15年も勉学に励んでいますが、それでもなおペンネンには及びません。これは技術者が短期間では育たないことを意味しています。ブドリはそれを知っているからこそ、自分より優れた技能を持つペンネンと教育者クーボーを犠牲にするわけにはいかなかったのです。

これらのことから、ブドリが言う「私より何でもできる人」とは、教育者であるクーボーと、火山技術者の最高峰ペンネン、さらに将来現れる自分を超える技術者のことを示していると私は考えます。
そして「何でもできる人」が「私よりもっと立派にもっと美しく仕事を」する、という部分には、現在の自分たちは自己犠牲を必要としているが、優れた技術者が育って、犠牲が無くてもみんなが楽しく暮らすことができる社会を作ってほしいという希望が込められていると想像できます。

ブドリの行為は確かに「自己犠牲」 には違いありません。しかし作品として強調したいのは「自己犠牲」の美しさではなく、知恵を未来に継承していくことの重要性だと私は考えます。

そのため、もしブドリの「行為」だけを安易に賛美して「自己犠牲」を求める為政者が世にはびこったとき、ブドリの理性を思い出して命の搾取を止めることに役立てられれば、『グスコーブドリの伝記』という作品が、まさに「伝記」としての価値を持つのではないかと考えています。

自己犠牲に至るブドリ

4・まとめ

私は本作に感動しつつも、「自己犠牲」を伴う展開に感動した自分に戸惑う気持ちがありました。しかし、ブドリの生き方を細かく拾いながら再読することで、ブドリの「民衆への想い」だけでなく「技術者としての想い」を想像し、自分なりに納得できたように思います。
感想文として自分の感情を掘り下げてみて、改めていろいろな気づきがあったこともまた面白く感じました。

『グスコーブドリの伝記』は語りどころ満載なので、他にも何本か感想や考察を上げてみます。興味があったらぜひ読んでみてください。


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ゆっきー舎
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