【小町がいたこと】 Episode③ 不穏な噂
ゴールデンウィークのある日、僕と折原は安くなり始めた春物の服を買いに街へ出ていた。僕も折原も、それぞれ傾向こそ違うもののファッションには関心があったので、こうして二人で服を買いに出かけることはこれまでにも何度となくあった。
お互いに目当てのものを手に入れ、休憩のために入ったファミリーレストランで涼みながら雑談を交わしているうちに、当然のように小町の話題となった。
「伊勢はさ、小町のこと、どう思うよ」
折原から向けられたその漠然とした質問に沿った答えを、僕はドリンクバーの薄いアイスコーヒーを飲みながら考える。
「不思議な子だなって思う」
質問の意図がはっきりとわからない以上、僕の返事も曖昧なものになってしまう。
「不思議、ねえ」
折原もまた、僕の言葉の意味を考えている様子だった。
「どうして小町は、僕たち以外のクラスメートとは話さないんだろう?」
「たしかに、そこは俺も気になってたんだよな」
テーブルに肘をついていた折原が、僕を指差して同意を示した。
高校に入学してから一ヶ月が経とうとしていたけれど、学校内において、小町の交友範囲というのは僕と折原だけに留まっている。
小町はあの通り、とても人目を惹く容姿をしている。当初は様子を窺っていたクラスメートも、折原に続けとばかりに話しかけるようになったけれど、今日までに誰一人として友好的な関係を築くことはできていない。小町は素っ気ない返事のみで建設的な会話への発展を拒み、ひどいときにはまったく耳を貸さず、話しかけてきた相手など最初から存在しないかのごとく振る舞うこともあった。
「小町はやっぱり、折原に惚れてるのかな」
そのように、周囲に対して排他的な姿勢の彼女が、僕たちには少なからず心を許している理由。それはひとえに、折原の存在にあるのではないかと僕は考えていた。
どんな相手とでも瞬時に打ち解けられる社交性。男の僕から見ても認めざるを得ない整った容姿。それなりに裕福な家庭環境に裏付けされた余裕ある振る舞い。時折思慮に欠けた短絡的な言動をするし、多少ナルシシズムのきらいだってあるにせよ、折原という人間は、異性から見れば間違いなく魅力的に映る存在だった。僕はこれまでに何度も折原の連絡先を教えてくれと仲介役を頼まれたし、ラブレターの投函窓口も請け負ってきた。そして、華やかな存在のそばにいる人間の宿命として、常に無遠慮な比較をされ続けてきた。
けれど意外なことに、折原の見立ては違うようだった。
「いや、それはないな。小町は俺のこと、好きでもなんでもないぜ」
「どうしてそう言い切れるんだよ」
「んなもん、話してたらわかるって。あんな綺麗な子なんだから、俺だって最初はワンチャンあるかもって思ったけどさ、ありゃ無理だわ。落とせる気がしねえ」
これまでに何人もの異性から好意を寄せられてきた折原がそうやって白旗を上げる姿を目にするのは初めてのことで、僕は密かに驚いていた。けれど、これまでに何度も熱い視線を向けられてきた彼だからこそ、そうやって自分に対する好意の有無を冷静に判断できるのだろう。
「実は俺さ、こないだ小町を遊びに誘ってみたんだよ」
そのことは初耳だった。
「へえ。二人で遊びに行こうって?」
「いや、今度の休み、三人で映画でも行こうぜって」
それでも駄目だった、と折原はため息混じりに言った。
「プライベートにはあまり踏み込んでほしくないっていうことなのかな」
「ああ、それはあるかもな。放課後を一緒にすごすのは大丈夫でも、休みの日までは関わってほしくないとか、そんなとこじゃねえの」
けっきょく、小町がどうして他者との関わりを拒み、僕たちは関わることを許されたのか、その理由に思い当たることはなかった。けれど、折原にしろ僕にしろ、あれほど容姿が整った女の子と一緒に学校生活を送るというシチュエーションは悪くないと感じていたので、そのあたりの事情については深く考えないようにした。
ただ、周囲を顧みず、いつも特定の異性と行動を共にし、誰よりも綺麗であるという自負を抱いて、そして実際に誰よりも綺麗な花家小町という存在に向けられる一部の女子からの反感は、日増しに高まっているように思えた。
五月の半ばになると、そんな彼女たちによって小町の陰口が盛んに囁かれるようになった。彼女たちは、当人がいない隙を見計らい、わざわざ僕と折原のもとへやってきて小町のことを罵った。抜き身の悪意というものに触れたのは、僕の人生においてそのときが初めてだったかもしれない。
「それ以上くだらないことを言うのはやめとけよ。君らがいくら小町を馬鹿にしても、俺たちはなにも変わらないからさ」
僕が女子たちの放つ殺伐とした雰囲気に呑まれてしまっている横で、折原はあくまでもスマートな態度を崩さなかった。そして、そんな彼に否定を突きつけられることで精神的なダメージを負う女子というのは、決して少なくないのだった。
「折原君も伊勢君も、あんまりあの女にヘラヘラしない方がいいよ」
最終的に、これは忠告だと言わんばかりの厳しい口調で、一人の女子が僕たちに向かってそう言った。
けれど、当の小町本人は、自身への中傷などまったく気にならないようだった。
「あれはただの嫉妬よ」
そのときの僕たちと女子たちのやりとりを教室の外から見ていたらしい小町は、表情一つ変えることなくそう断言した。
「あの子たちはただ、妬んでるだけ。私が綺麗だから。綺麗な私が自分達と仲良くしてくれないから、拗ねちゃってるのよ」
傲慢で、呆れるほど主観的で、特定の人間の神経を大いに逆撫でするであろうその言葉に、僕は揺るぎない説得力を感じてしまった。己の美貌に対して絶対的な信頼を抱いている彼女が、僕にはどうしようもなく眩しく映る。
あの女子たちの忠告も、あるいは間違っていないのかもしれないな。
僕は、少しだけそんなことを思った。
けれど、小町の評判を巡る事態は思わぬ展開を見せた。
――花家小町は、中学のときに傷害事件を起こした。
五月の終わり頃、そんな噂が僕たちの耳に飛び込んできた。最初に耳にしたのは折原で(女の子の関心というのは、どんなシチュエーションであろうと基本的に折原へと向けられている)、やはり小町を敵対視している女子グループから聞かされたようだった。
「中二のときに、クラスの子を三人くらいボコボコにしたんだってよ。ハサミとか持ってめちゃくちゃに暴れるから、学校が警察に通報したらしいぜ。笑うよな」
そんな風に、当初は折原も明らかなデマだと受け止めていたようだった。小町と三人で過ごしている間も、わざわざ噂の真相を確かめたりはしなかった。
けれど、それからも折原のもとには、彼に多少なりとも気がある女子たちによって、まるで波状攻撃のように小町の悪評が繰り返し寄せられていった。
時間をかけて何度も不穏な情報を聞かされていくうちに、折原の中では段々と噂の信憑性は高まっていったようで、いつしか彼は、小町に対してわずかではあるけれど不信感を抱くようになっていた。これが彼女たちの作戦だったとしたら、大したものだと思う。
「あんな綺麗な子が周囲から浮いてるってことは、やっぱどっかやべえ部分があるのかもな」
英会話のレッスンがあるから、と小町が先に帰ってしまった日、僕たちはいつもの河川敷で寝転がりながら、噂について話していた。
「傷害事件を起こしたっていう、その噂の出所はどこなんだろう」
そもそも、小町の悪評を懇切丁寧に教えてくれるような熱意ある女子なんて、今日までに一人たりとも僕の前には姿を見せていない。彼女が起こしたという傷害事件についてこれまでに耳にした情報は、全て折原からの又聞きだ。だから、僕たちの間で噂に対する受け取り方にギャップがあるのも、当然と言えば当然のことだった。
「俺に教えてくれた子は、小町と同じ中学だったやつから聞いたって言っていたな」
「その同じ中学だったっていう子は、僕たちのクラスにいるのか?」
「いや、違う高校に通ってるらしい」
「そっか」
話を整理していくと、今回の噂というのは、そもそも情報筋からして随分と細く頼りないものだった。けれど、度重なるネガティブキャンペーンのせいか、折原はソースの正確性に疑いの目を向けていなかった。僕がそのことを指摘しても、彼が抱いている小町への不信感を払拭するには至らなかった。
だから僕は、ある意味において覚悟を固める必要があった。自分の判断力を信じ、冷静に物事の真実を見極める、その覚悟を。
飛び交う噂にどれだけの真実が潜んでいるのか。
不穏な空気にさらされながらも、僕は今後も三人ですごす未来を望んでいるのか。
――僕は小町のことを、どう思っているのか。