【小町がいたこと】 Episode⑬ 恋心
学期末のテストが返却された。いくつかの科目において、僕は自分でも驚くほど高い点数をとっていた。
夏休みを目前とした終業式の日。学校全体が浮き足立っている空気に包まれている中、僕は心のどこかに空洞を抱えていた。体育館に移動して終業式に身を置いていても、教室に戻って担任教師の訓示じみた話を聴いていても、その空洞の中になにかが落とされることはなかった。
授業の予備日で学校が休みとなっていた昨日、小町は旅立ってしまった。
そして今日、小町のポーランド行きをまだ現実のものとして受け止められない僕は、そうすることになんの意味があるのかと思いながらも、折原と一緒に小町のクラスの担任教師に話を聞いてみた。
「花家さんは、家庭の都合でお休みされています」
教師の説明はあくまでも彼女のプライバシーに配慮されたものだったけれど、家庭の都合というその言葉に、僕は覆りようのない現実を突きつけられた気がした。
「電話がかかってきたときはマジかよって思ったけどな」
折原には、おとといの夜のうちに小町から連絡があったらしい。けれど、彼が知らされたのもやはり、ポーランドに行くという、唐突すぎる情報のみであるらしかった。小町はまたしても、不意を打つ形で僕たちから離れていってしまった。
そんなわけで、充たされることのない空洞を抱えながら、僕の高校生活二度目の夏休みは始まった。僕はアルバイトをしたり、課題を進めたり、折原と服を買いに出かけたりしながら、少しずつ小町のいない日常に慣れようとした。
去年の夏休みがそうであったように、どちらにしろ顔を合わせる機会なんてほとんど訪れないにせよ、会おうと思って会える状況とそうでない状況とでは、心構えがまったく違ってしまう。小町の不在を不在として冷静に受け止めることは不可能だった。気がつくと僕は、小町は一体どこにいるのだろう、とそんなことを考えている。
もうポーランドを発ってヨーロッパのどこかの国にいるのだろうか。トラブルもなくすごしているだろうか。なにを食べているのだろうか。どんな服を着ているのだろうか。美しい観光名所や絶景に心を動かされたりしているのだろうか。夜は眠れているのだろうか。母親とはどんな話をするのだろうか。現地の男が見ても、やはり彼女は魅力的なのだろうか。僕は、ずっと小町のことを考えていた。
寝ても覚めても、明けても暮れても、異国ですごす小町を思い、心配する気持ちが常に心のどこかに存在している。そうやって小町を思うことで、少なからず自分の心が摩耗していくのを僕は感じていた。けれど、どれだけ心が磨り減ろうと、小町を思うことをやめられなかった。
そうやって日々を過ごしていく中で、いつしか僕は、小町に恋をしているのだという己の気持ちを、穏やかな心で受け止め、とてもシリアスに認めることができた。それは、僕がこれまでに女の子へ向けてきたどんな好意とも重ね合わせることができない、痛みと昂揚を伴う唯一無二の感情だった。
まるで不定形な煙のように、恋心は僕の中で満ちていった。その事実に気づくと、ほんの僅かに心が磨り減る頻度が少なくなった気がした。好きになるということは、覚悟を固めることだった。つくづく、彼女と離れていないと自分の思いを省みることもできないのだな、と僕は思った。
そして、その日は、予想外に早くやってきた。
八月十五日の土曜日。夕方、アルバイトを終えて家に帰る道すがら、何の気なしに携帯電話を開いたとき、僕は思わず声を上げてしまった。小町からの着信履歴があったのだ。ディスプレイのその文字を認めたとき、心臓は痛いほど高鳴った。安堵と、わずかな緊張と、計り知れないほどの喜びが心の内から湧いてきた。
僕が電話をかけると、小町はすぐに出た。
「今日、帰ってきたわ」
もしもし、という確認の前置きもなく、小町はそう言った。
「おかえり」
「ただいま」
色々と言いたいこと、訊きたいことがあったはずなのに、そんな挨拶を交わしただけで、僕の中に滞留していた言葉はどこかに綺麗さっぱり流れてしまう。こうして声を聞くだけで、僕のすごした日々は正しい意味で報われた気がした。
「ねえ、今から会えないかしら」
「今から?」
彼女の声は、明らかに旅の疲れを感じさせるものだった。僕が日を改めたほうがいいんじゃないかと言うと、小町は大丈夫、ときっぱり言い切り、それからこう続けた。
「私が伊勢君に会いたいのよ」
僕が返事をするより早く、小町は待ち合わせ場所と時間を一方的に告げて、通話を切った。携帯電話を耳から離しても、彼女の言葉が頭の中で反響していた。
踵を返して、歩いてきた道を引き返す。彼女が指定したのは、つい先ほどまで僕が働いていた喫茶店だった。
店内に入って、今度は客としてテーブル席に座る。思いがけず姿を見せた僕に話しかけてきた店長に適当な相槌を返しているうちに、小町が姿を見せた。
「久しぶり」
向かいの席に腰かけた彼女に、僕はそう言った。
「ええ、久しぶり」
いざこうして小町を目の当たりにしても、僕は自分でも不思議なほど冷静でいられた。それはもしかしたら、彼女が不在の間に自分の思いを見つめ直すことができたからなのかもしれない。
「少し痩せた?」
その言葉は自然と口をついて出た。この一ヶ月ばかりの間に、小町の輪郭は少しシャープになっていた。それまでだって、彼女は決して太ってなどいなかった。むしろ、学校のほとんどの女子よりもほっそりとしていたというのに。
「そうかもしれない。向こうの食事が、あまり合わなかったのかしらね」
そっか、と僕は言った。ちょうどそのとき、僕と入れ替わりで入ったホールスタッフが注文をとりに来た。彼の好奇が混ざった視線に気づかないふりをして、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
「ポーランドは楽しかった?」
そう訊ねても、小町からの反応はなかった。彼女は黙ったまま、テーブルに置かれた僕の手元を見ていた。
「伊勢君と折原君には、心配をかけてしまったわね」
「そういえば、折原は? あいつも呼んでるんだろ?」
「折原君は来ないわ」
小町はテーブルの上に肘をつき、上半身を少しだけこちらに寄せた。
「私がここに呼んだのは、伊勢君だけなんだもの」
そして、まっすぐにこちらを見つめながら、淡々とそう言った。僕は、彼女の言葉の意味がうまく理解できなかった。
「どうして、僕だけ?」
「別に、伊勢君だけでも構わないじゃない」
斬って捨てるような冷淡さでそう答えられると、僕もそれ以上のことはなにも言えなかった。そして当然のように沈黙が訪れた。僕たちが言葉を探し当てるより先に、アイスコーヒーが二つ届けられた。僕たちはストローをグラスに刺したり、シュガーやポーションをそれぞれの分量だけ投入したり、必要以上にストローでグラスの中をかき混ぜたりしながら、お互いの次の言葉を待っていた。僕の方はともかくとして、こんな風に空白の時間を持て余すような振る舞いが透けて見える小町というのも珍しかった。その様子を当たりにすることで、言いようのない焦燥感が掻き立てられていく。
「随分と長旅だったし、細かい数字はよくわからないけど、きっと時差だってあるんだろう? また今度、折原も入れて三人で集まろうよ。今日はもう、家でゆっくりしていたらいいんじゃないかな」
それは、間違いなく小町を慮っての言葉だった。けれど、彼女はなぜか傷ついたように目を細めて僕を見ていた。不思議と今の小町からは、内に抱えている感情がほとんどダイレクトに伝わってくるような気がした。
「ねえ、伊勢君」
「うん?」
「今から、私のお願いを聞いてくれないかしら」
「お願い?」
その思いがけない言葉に僕は戸惑ってしまい、そのまま復唱してしまう。
「ごめんなさい。適切な頼み方というのがよくわからないわ。とにかく、私が言いたいのは、なにも訊ねずに、私のお願いを聞いてほしいということよ」
その口調から、小町の方がよっぽど僕よりも戸惑いを抱えながら話していることがわかった。そのせいだろうか、心に余裕が生まれる。
「それは間違いなく適切な頼み方ではないけど――」
こらえきれずにこぼれた僅かな笑みを収めてから、僕はそっと息を吸う。
「聞くよ。僕にできることなら」
「そう。ありがとう」
入れ違いのように現れた小町のその微笑には、僕の知らない美しい翳りが宿っていた。