【小町がいたこと】Episode㉒ 闇を暴くは

 停学処分から三日目、四日目と、僕は暗い部屋の中で息をひそめるようにしてすごしていた。部屋から出るのは、食事のとき、トイレに向かうとき、シャワーを浴びるとき、そして毎日律儀にやってくる担任教師との面会に応じるときだけだった。
 担任教師がリビングにいる光景に、僕は少しずつ慣れ始めていた。相変わらずコートを預かる一声はかけられないでいたけれど、代わりにコーヒーを出すようになった。僕がテーブルに湯気を上げるマグカップを置くと、彼は「おう」と唸るような声をあげ、特に遠慮する様子もなく口をつけた。
「昨日いただいた課題です」
 僕は原稿用紙の入ったクリアファイルを担任教師に手渡した。停学を言い渡された初日に課せられた反省文の他にも、登校停止の期間中は定期的に課題が発生する。今回僕は、課題図書として渡されたマルコムXの自伝を読んで原稿用紙五枚分の感想文を書いた。
「もう書いたのか。早いな」
「他にやることもありませんから」
 それもそうか、と担任教師は笑う。黄色い歯もヤニの臭いも、すっかり慣れてしまった。
 次に来るのは来週だから、と担任教師は帰り際に言った。担任教師を見送ったあと、僕は廊下とリビングの電気を消して二階の部屋に戻った。そしてベッドに横たわり、また目を閉じた。
 小町に会いたい。
 そう願う気持ちがあった。けれど、会うのが怖い。もしも彼女から連絡があったとしても、どんな話をすればいいのかわからなかった。
 小町がヨーロッパから帰ってきた夜、彼女は僕に対する好意を朧げに意識していた。あのとき耳にした言葉を依り所にすることで、僕は安全圏を作り出し、押しつぶされそうな不安を今日まで凌ぐことができた。
 けれど、どうやらそれも限界のようだった。僕は、いつまでも決定的な言葉を向けてくれない小町を、信じ切ることができずにいる。最後の最後で僕の心に突き刺さったのは、小町の言葉ではなく、僕自身が抱えている不安と、それを炙り出すあの男の言葉だった。
 小町、ごめん。
 僕は静かに詫びた。ずっと、向き合うこともできずに逃げ続けている彼女に。なんの意味もない空虚な謝罪だ。けれど、他に向けるべき気持ちが見つからなかった。
 ふと、チャイムの鳴る音がした。閉ざされた部屋の扉の向こうから、薄闇を縫うようにしてその音は僕のところまでどうにか届いた。
 両親がわざわざチャイムを鳴らすはずがなかった。担任教師がなにか伝え忘れていたのだろうか。だとすると僕は応じなければいけない。けれど、とても体を起こす気にはならなかった。チャイムはもう一度鳴った。二度目のチャイムは、さっきよりも遠い場所から届いたような気がした。
 無視を決め込んでいれば担任教師も引き下がることだろう。そう思って僕はチャイムが鳴ったという事実を忘れることにした。
 けれど次の瞬間、驚くべきことに玄関のドアが開く音がした。僕は玄関の施錠を怠っていたことを思い出す。
 担任教師の予想外の行動に、僕は呆れる思いだった。そこまでして伝えたいこととは一体なんだろう、と。さすがに家に上がりこまれては無視するわけにもいかず、やれやれ、と思いながら僕は立ち上がろうとした。けれど、ふと一つの疑問がよぎった。
 本当に担任教師なのか?
 たしかに僕たちはつい数分前まで顔を合わせていたし、彼はどことなく一般的な教師像では計れない一面もある。けれど、生徒の家に断りもなく上がりこむというのは、さすがに非常識すぎやしないだろうか。
 頭の中で、僕の理解が追いつかないうちに次々と仮定が構築され、解体され、そして再構築されていく。まるで一つのシュールレアリズム作品を作り上げるときのように、頭は僕の意思や希望とは異なる次元で働いていた。
 やがて、一人の人物が浮かび上がる。そして、荒く弾む心音に覆いかぶさるように、ゆったりとしたひそかな足音が近づいてきた。
 部屋のドアが開く音がした。不意に一条の光が飛び込んでくる。
 このとき、僕はすでに侵入者の正体に気づいていた。隔てられた数日間を越えて、かすかな薄荷の匂いがなにより早く僕の鼻腔へと届いたからだ。
 パチン、と照明のスイッチが入る。天井のシーリングライトが二度三度と瞬き、重層的な薄闇を跡形もなく消しとばした。
「私の好きな言葉の一つに」
 光の直撃を受けた両目を開けられずにいる中、侵入者のあまりに堂々とした声が鼓膜を震わせた。僕はゆっくりと目を開く。彼女の姿を認めた瞬間、自分でも把握できていない感情が爆発してしまいそうで、強く唇を噛んだ。
「意趣返しというものがあるわ」
 部屋の入り口に立っていたのは、花家小町だった。制服姿で、肩にカバンをかけて、首元に黒いマフラーを巻いた彼女は、腕を組み、険しさを滲ませた表情で僕を睨んでいた。照明に目が慣れていないばかりではない。傲岸不遜さすら含んだ美しい彼女が、今の僕にはあまりに眩しかった。


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