【小町がいたこと】 Episode⑫ ポーランド
「いたんだ」
「ええ」
「どうしてインターホンを押したときに出てくれなかったんだよ」
「会うつもりなんてなかったからよ」
格子窓の向こうで小町は目を細めてこちらを見ていた。
「でも、こうして顔を見せてくれた」
僕がそう言うと、窓がピシャリと閉められた。もしかして怒らせてしまったか、と思ったけれど、そうではなかった。ややあって、ドアの施錠が解除される音がした。扉の向こうから、ノースリーブの黒いシャツにデニムパンツという装いの小町が姿を見せる。
「私が観念しないと、きっと伊勢君は干からびるまでそこにいるんでしょう?」
久しぶりに対面した彼女は、艶やかな黒髪を靡かせながらそう言って、不機嫌そうに唇を結んでいた。そんな表情も、当然のように僕の目を惹きつけた。
日傘をさしながら歩く小町に先導される形で訪れたのは、芝生の敷かれた公園だった。僕たちはさくさくと音を立てて芝を踏みながら敷地を横切り、隅の方にあった屋根付きのベンチに腰を下ろした。すぐ脇に自販機があったので、僕はペットボトルに入った麦茶を二本買った。僕はそのうちの一本を彼女に差し出したけれど、「いらない」と一蹴されてしまった。
「テストの手応えは?」
麦茶で喉を潤してから、僕は小町に訊ねた。
「いつも通りよ」
畳んだ傘に皺が入らないよう注意深く丸めながら、小町は淡々と答える。そして最後にパチンとボタンを留めてベンチに立てかけた。
「いつも通り、英語は完璧だと」
「そう言う伊勢君はどうだったのかしら」
「僕は、わりといい線いってると思う」
「ふうん。一人でお勉強を頑張った成果ね」
「一人ですごしていたのは小町も一緒じゃないか」
僕がそう言うと、小町は自分が履いている黒いレザー編みのサンダルに向けていた視線を僕の方へと移動させた。
「伊勢君は、わざわざ期末テストの手応えを語るためだけに、私の意志を無視して家まで押しかけてきたのかしら?」
小町は呆れを隠そうともせずにそう言った。
「そんなわけない」
そんなわけ、ない。けれど、自覚したこの思いを、どうやって言い表そうか迷っているのもまたたしかだった。思いを伝えることは簡単だ。けれど、その目的が果たされたとして、それに続く言葉は? 望む返事は? 思いも、希望も、まだ自己満足の域を出ていないのではないか? 今の僕は、臆病と冷静の違いすらうまく判断できない。
僕の弱々しい呟きを最後に、会話が途切れてしまう。
目の前に広がる芝生は、太陽の光を照り返して瑞々しく光っている。随分長い間、僕たちは黙ったまま陰の中から日差しに晒されている世界を眺めていた。隠していた思いを折原に看破されてから、僕の心臓は普段よりもずっと早く弾んでいる。いつまでもこうしていると、僕自身もまだ手懐けられていない思いが、ふとした拍子に喉から零れ出てしまう気がして、飲みたくもないペットボトルに口をつけてしまう。
「伊勢君」
「うん?」
「私の選択は正しかったと思う?」
風になびく髪をそっと抑えながら、小町は僕にそう訊ねた。
「選択っていうのは、一学期の間は会わないと決めたこと?」
「ええ」
「長期的な視点で見れば、正しかったんだと思うよ」
「微妙な言い方をするのね」
「……僕も折原も、君に会いたいと思っていたんだ」
「そんなに好かれていただなんて、知らなかったわ」
「真面目に話してるんだよ」
「わかっているわよ。私も、本当はあなたたちと会いたかった。そのことはメールでも伝えたはずよね」
「僕もこの一週間、ずっと一人ですごしていたよ」
「そう」
「たまに小町を見かけた。一人ですごしていても、君はいつも堂々としてた」
「一人ですごすなんて、今に始まったことではないからよ」
「ずっと会いたかった」
「でも、伊勢君は会いに来てくれなかったわ」
「だって、会うつもりなんてなかったんだろう?」
ここに来る前に小町がそう言っていたのを思い出す。僕はその言葉を――彼女が選びとった意志を――尊重してきたのだ。少なくとも、昨日までは。
「テキスト通りの解釈しかできないなんて、やっぱりお勉強のやりすぎなんじゃない」
あざ笑うように言って、小町は立ち上がる。言葉の真意を訊ねたかったけれど、どうしても口が動かなかった。普段は見せないような憎らしい笑みを向けられて、僕は小町のことがまた少し好きになる。
風に吹かれたロングヘアーを、小町はそっと左耳にかける。僕は、柔らかく伸びた五本の指が髪の中を静かに流れるその光景から目が離せなかった。影に覆われたささやかな世界の中で、小町の内なる輝きが僕にはあまりに眩しく映る。
「小町と会えたら、勉強なんてやらずにすんだ」
「責任転嫁? 頭にくるわね」
頭にくる、なんて言いながら、小町の笑みは穏やかなものに変わっていた。僕はそんな表情の動きにはっきりと目を奪われていた。
「小町」
「なに」
「伝えたいことがある」
僕は、その言葉にほとんど答えを乗せてしまっている気がした。まるで纏まっていない気持ちを、僕は紙屑を丸めるようにして強引に形にし、投げつけようとしている。そのことが分かっていても、駆動し始めた感情に衝き動かされるのを止められない。小町は整った無表情のまま、ベンチに座る僕を見下ろしていた。
「それは、今すぐに伝えないといけないことなのかしら」
「今は僕の話なんか聞きたくない?」
「そうじゃないの」
――そうじゃないのよ。小町はそう呟いた。初めて耳にするような、不安定に揺れる声だった。彼女はこちらにくるりと背中を向け、ゆっくりと歩を進めた。そして、芝生の緑が広がる日なたの世界を前に立ち止まる。影によって引かれた境界線の前で、小町は随分と長い間そのまま動かなかった。
「私も、伊勢君に伝えないといけないことがあるわ」
「僕に?」
優しく吹く湿った風に乗せられるようにして、小町はこちらへ向きなおった。視線は僕ではなく、舗装されたコンクリートに向けられていた。これからひどく言いにくいことを口にしようとしているのが、わかってしまう。
「私、明日からポーランドに行くのよ」
ポーランド。
なんの前触れもなく放たれた遠い異国の名に、理解が追いつかなかった。
「えっと……それは、旅行かなにか?」
僕は、辛うじてそれだけ返す。
「まあ、旅行といえば旅行かしら。母に呼ばれているの。夏休みの間、一緒にヨーロッパを回らないかって」
旅行。夏休みの間。それらの言葉に僕は心からの安堵を覚えた。彼女は、この街からいなくなるわけではないのだ。しかし次の瞬間には、夏休みの間は会えないのだという事実を突きつけられる。
「本当はもっと早く伝えたかったんだけど」
影の外の日なたの世界に向き合いながら、小町は呟いた。
「二学期が始まるまで、帰ってこない?」
咄嗟に口をついて出た言葉は、僕の不安を愚かしいほど素直に表したものだった。いいじゃないか、行っておいでよ。そう言って彼女を送り出すべきなのは、わかっているのに。
「そうね。今年の夏は、伊勢君が働く姿を拝めそうにないわ」
「そっか」
もう少しで、なにかネガティブな言葉が口をついて出てしまいそうだった。
伝えたいことがある。そんなことを考えながら、口はそれまでのように動いてはくれなかった。屋根によって作られた影の庇護下にあってなお、僕は焦燥感で体が熱くなった。
やがて、小町は「いい夏休みを」と言い残して行ってしまった。最後までこちらを振り返ることはなかった。僕はなにも言えず、遠ざかる黒い日傘を見送った。