【小町がいたこと】 Episode⑯ 信頼と好意


小町が眠ってしまってからも、僕はしばらくベッドから動けずにいた。繋がれていた手をゆっくりと離して、彼女に背を向ける形で座る。僕の目はすっかり暗さに慣れて、今では暗色に染まった寝室の全容のほとんどを把握することができた。
 寝室の隅に、小さな化粧台が置いてあるのが見える。僕は、一ヶ月前にポーランドへ発つ前の小町がそこに向かい合っている姿を想像した。そして、言葉では言い表せない寂しさを覚えた。
 彼女の話を、僕は振り返る。いつ日本に帰るのか、という問いに対して、小町の母親は、一人で生きていくべきだと返した。その返答から、小町は親子としての繋がりが消失してしまったことを悟った。
 小町と母親との関係について、僕は多くを知らない。おおまかな人となりのような情報は以前この家を訪れたときに聞いたけれど、今回の出来事に対して僕がなにか意見を持つには、二人の関係性に対する理解があまりに不足しすぎている。
 今日、僕にわかったことといえば、小町が母親に対して抱いている思いが、想像よりも遥かに根強いということくらいだった。そしてその思いというのはおそらく、僕や折原が自分の家族に向けるものとはまた違った意味合いの感情で構成されているのだろう。
 ――これから小町と関わっていく中で、彼女の母親というのは避けて通れない存在なのかもしれない。
 そんな、漠然とした予感があった。
 後ろで小町がゆっくりと体勢を変える音がする。疲労も、悲しみも、遣る瀬なさもすべて僕に預けて眠っている小町。そんな彼女のことを、はっきりといとおしく思う。
 僕は彼女を起こしてしまわないよう、静かにベッドから腰を上げて寝室を出た。リビングの革張りのソファに深く腰掛け、腕を組んで目を閉じた。エアコンの冷風が少しだけ肌寒く感じられたけれど、やがて眠気が訪れ、意識は温かい泥の中へと沈んでいった。

 ふわふわとした眠りの淵から僕の意識を引き上げたのは、微かなメロディだった。耳をすませてみると、それはどうやら古い洋楽のようだった。メロディは聴いたことがあるけれど、タイトルやアーティストは思い浮かばないような、そんな歌だ。
 目を開けると、そこは小町のアパートのリビングだった。眠ってしまう前のことはすぐに思い出せた。けれど、僕の体には覚えのないブランケットがかけられていた。背もたれから体を離すと、肩と腰が痛んだ。唾を飲み込む喉にも違和感がある。ブランケットからは、ひんやりとした薄荷の匂いがした。
 体は、冷風を浴び続けてすっかり冷えてしまっていた。なにも被っていなかったら、間違いなく風邪を引いていたことだろう。僕はポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認した。八月十六日の午前三時二十分。意識を手放した正確な時間は覚えていないけれど、少なくとも数時間、僕はソファに座りながら眠っていたようだ。ブランケットを羽織るようにして肩にかけてから立ち上がり、僕は音楽が流れてくる場所へと向かった。
「起きたのね」
 寝室に足を踏み入れると、ベッドの上で膝を抱きながら座る小町の姿がぼんやりと見えた。僕は部屋の入り口から中には入らず、フローリングにあぐらをかいて座り込んだ。音楽は、寝室のコンポから流れているようだった。
「もう少し眠ればいいのに」
 と僕は言った。けれどそれに対する返事はなかった。
「不思議ね。今、穏やかな気分だわ」
 小町はそう呟いた。
「母のことは、もちろんショックよ。でもね、なんと言えばいいかしら……そう、覆しようのない事実だって、思い知ったの。通り過ぎた出来事になった、というわけではないわ。あの夜の母の言葉を思い出すと、とても辛い気持ちになる。それでもね、少しだけ、冷静な気持ちで受け入れることができた。それは、伊勢君のおかげ。あなたが、私のそばにいてくれたおかげだと思うのよ」
「……うん」
 遠い異国で小町と彼女の母親の間に起こった出来事に関して、僕は具体的なことはなにも言うまいと決めていた。たとえ小町が、僕からの言葉を望んでいたとしても。
「小町」
「なに」
「どうして僕だったの?」
「……質問の意味がよくわからないわ」
「どうして僕が、この場に必要だったの?」
「そんなこと、私に訊かないで」
 小町の声は、これまでに聞いたことのないほどの悲痛さを纏っていた。僕は、訊ねたことを後悔した。
「今夜だけは、独りでこのベッドで眠りたくなかった。誰かが傍にいてほしかった。ここに来る前にも言ったでしょう? そんな我儘をぶつけられる相手なんて、私にはあなた以外に思いつかなかったのよ」
 ここに来る前に、小町が『なにも訊ねないで』と前置きした理由がようやくわかった。彼女もまた、明確な答えを用意できていなかったのだ。答えを用意できないまま、不安とショックに押しつぶされないように、誰かの存在を求めた。もしかしたら、その誰かになり得るのは、僕だけだったのかもしれない。
 そんな希望的観測が、心に痺れるような甘い痛みを残していく。こんな状況にも関わらず、僕は小町への思いがさらに高まっていくのを止められなかった。
「ブランケット、ありがとう」
 小町の思いに触れて、僕はどんな言葉を向ければよかったのだろう。うまく頭が回らずに、そんな当たり障りのないことを口にしてしまう。
「どういたしまして。あんなところで寝ていないで、私の隣に来ればよかったのに」
 彼女は、平然とした様子で僕を試すようなことを口走る。
「そんなことをしたら、約束を守れなかったかもしれない」
「約束?」
「今夜は、君に手を出さないという約束」
 僕ははっきりそう言い切ると、小町は考え込むように沈黙する。
「それは約束というより、私が一方的に突きつけた制約じゃない」
 やがて小町は、密やかな笑みを滲ませてそう言った。
「そろそろ帰るよ」
 僕はそう言って立ち上がった。もう少しで夜が明ける。小町も立ち直りつつある。僕に唯一残された務めは、彼女の信頼に最後まで応えることだった。
「そう」
 と小町は呟いた。そしてそのままタオルケットの中にすっぽりと頭まで潜りこんだ。僕はその場に立ち尽くしたまま、ベッドの上の膨らみから目を離せなかった。
「伊勢君」
 布地に阻まれてくぐもっていても、彼女の声は僕の鼓膜を優しく震わせる。
「うん?」
「私、伊勢君のことをとても信頼しているわ」
「ありがとう」
「でも、信頼だけじゃなくて、好意も抱いているのだと思う」
 明日の天気は晴れだと思う。そんな世間話をするときと同じトーンで、僕が望む言葉はあまりにも呆気なく放たれた。そして、僕がなにか返事をするより先に、「信頼と好意の違いが、私にはよくわからないの」と続けた。
 自分の気持ちを落ち着かせるために、僕はため息を一つついた。
「筋道立てて説明するには入り組みすぎているんだと思うよ、そのあたりのことは」
「それでも伊勢君なら、上手く言語化できるんでしょう?」
「そんなことはない」
 少しだけ声が大きくなってしまう。本当ならば、このままなにも言わずに帰ってしまおうと思っていた。けれど、自分の気持ちがわからないという彼女が、僕の抱えているこの気持ちにもまた気づいていないらしいということを意識してしまうと、不穏な波が僕の中でさざめき立つのがわかった。
 そして、口にするまいと抑え込んでいた感情が飛び出てしまう。
「僕も今、君への気持ちを抱えてとても苦しんでいるんだ」
 それは、彼女がポーランドへ発つ直前に、僕が勢いのまま告げようとした思いだった。小町が、潜り込んだタオルケットから再び身体を出した。
「そうなの?」
「そうだよ」
「それはつまり、伊勢君も私に好意のようなものを抱いているということ?」
 好意のようなもの?
 僕は、脱力のあまりもう少しでフローリングに座り込みそうになった。そうか、やっぱり小町は僕の抱えているこの気持ちに、今の今まで気づいていなかったのか。覚悟していたつもりだったけれど、実際に言葉にされるとがっくりきてしまう。
「そうなんだよ」
 コンポから流れる音楽が、無責任に沈黙を攫っていく。なにか言わないといけない。強くそう思う。けれど、ああして綻びから零れ落ちるような形で思いを打ち明けてしまった以上、仕切り直して告白をするということが、今の僕にはどうしてもできなかった。
「僕は、これから時間をかけてこの気持ちをたしかめていきたいと思ってる」
 苦し紛れも甚だしい僕の呟きを耳にして、小町は静かに微笑んだ。夜目の利き始めた僕に、その姿は不思議なほど鮮明に映った。
「奇遇ね。私も伊勢君と同じように考えていたのよ」

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