見出し画像

【短編】エスケープ・フロム・2DK!

朝、目が覚めた瞬間、和歌子は思った。

「逃げなきゃ」

とるものもとりあえず、服を着替え、一番手近に投げ捨てられていたコートとマフラーを身につけ、ボディバックに最低限の財布やらスマホだけを詰め込んで、転がりだすように玄関を開けた。

こんなところに居られない!

息苦しさのために大きく息を吸うと、冬の朝の凍てつく空気が、気管に肺にととげとげ刺さった。日の昇りきらない、二月になったばかりの午前は、一人で歩くには寒すぎる。

小走りになりながら、和歌子は一番近い地下鉄のホームに逃げ込んだ。電車はすでに動いている。平日と違って、土曜日の朝の地下鉄ホームは空いていて、旅行に行くような出で立ちでキャリーケースを引く人や、何か毎週の約束ごとのために電車に乗るようなお年寄りの姿が目立った。

電車はすぐに来た。繁華街へ向かう電車だ。

「逃げなきゃ」

和歌子はひとり、そう呟いて、ぱかっと口を開いた電車に足を踏み入れた。

少し年季の入ったシートに和歌子は腰かける。じとっとするような暖房に当たりながら、和歌子は息を整えた。準備運動もなしに急に動いたから、どっと疲れが襲ってきた。そうしてしばらく電車に揺られながら、まばらな乗客や、悪趣味な本の広告などを眺めていた。五感に暇を与えると、よくないものばかり受け取ってしまいそうで、耳を塞ぐためにスマホからイヤホンで音楽を流した。目を塞ぐために、瞼を閉じた。

ぇ次はー○○~~。次は○○~。

耳を塞いでいても、駅名を告げる車内アナウンスはイヤホンをすり抜けて耳に届く。そして、眠たくもない瞼は閉じようとしてもひとりでに開く。寝てはいけない時に眠たくなってしまった時はちっとも開いてくれないのに、不便な体だと和歌子は心の中で文句を垂れる。

そんなだから、その駅で乗り込んできて、仲睦まじげに並んで向かいのシートに座った一組の男女の姿をうっかり視界に入れてしまったのだ。
二人は幸福そのものだった。この冬の中で温かいものが生まれるとしたら、それは全て二人の間から生まれるのだということを、疑うことも出来ないような温かさでもって、二人はお互いの瞳を見つめ合って笑いあっていた。

「逃げなきゃ」

和歌子はその次の駅で降りた。
そこは大きなイマドキのショッピングモールのある駅だった。
和歌子はそこに飛び込んだ。ショッピングモールはたいそうにぎわっていた。この人ごみの中でなら、和歌子をこの逃亡に追いやったものもそう容易には和歌子のことを見つけられまいと安心した。しめしめ、と和歌子はほくそ笑む。

安心すると、ウィンドショッピングを楽しむ余裕が生まれてきた。和歌子は長いこと、ショッピングモールの衣料品店の間を放浪した。
好きだな、と思う服を見つけて、和歌子はそれを手に取ってみた。鏡の前に行き、ハンガーを握る左手を首元まで持ち上げて自分の体に当ててみる。右手は右の袖の先を握り、腕に袖を沿わせたまま、少し伸ばしてみたり、垂らしてみたりして、自分がこの服を着ているイメージを膨らませる。

『いいんじゃない? 和歌子はスタイルがいいから何でも似合うよ』

不意に仁志ひとしの声が聞こえる。和歌子はハッとして振り返るが、仁志はいなかった。

「逃げなきゃ」

和歌子は服を元の場所に戻し、足早にその店を立ち去った。
カーペット敷きのショッピングセンターの床は、ふかふかと和歌子の逃亡の足音を吸収して、追跡者から匿ってくれるような気がした。子どもがこぼしたジュースが作ったシミを踏んづけながら、和歌子は平然を装ってショッピングモールから出た。

日が昇りきった外は、気温が上がって温かくなってきていた。

ひと息つきたくなった和歌子は、ちょうどよく道端に据え付けられていた石造りの腰掛けに座った。存外ひんやりと冷えていて、和歌子は身震いしたが、歩き疲れた足にはすぐにそこから立ち上がることはできなかった。

ふぅ、とスマホを手に取った。
いつもの癖でLINEを真っ先に開いてしまうと、まだ仁志とのトークルームが一番上に来るようにピン留めされたままであったことに気付き、和歌子はいそいでそれを左にスライドし、ピン留めを解除した。そして、ブロックするために開いたトークルームの中で、仁志からの『幸せだったよ』というメッセージが目に入ってしまった。見なかったふりをして、メニューバーからブロックを選択する。そして、急いでサイドのボタンをぐっと押し込み、画面をロックする。

スマホを握る手をだらりと下げて膝の上に置くと、よく晴れた青空の下の街で、たくさんの人が歩いていた。
ああ、あの噴水も、あのお店も、仁志と行った場所だ。
ああ、あの人、仁志が気に入っていたのとおんなじコートを着ている――

「逃げなきゃ」

腰掛けから立ち上がって、和歌子はまた雑踏の中を歩き出した。

そうして和歌子は行く当てもなく、長いこと街の中をさまよっていた。
仁志と五年も暮らしたあの部屋に、帰れる気がしなかったのだ。
五年も住んでいたのに、和歌子にはあの部屋までの帰り方がわからなくなってしまった。

二人で顔を寄せ合って、物件情報ポータルサイトで部屋を探した。
南向きで日当たりが良くて、棟の中の戸数が少なくて、落ち着いて生活できそうな2DKを見つけたのは、仁志の方だった。

『ここにしようよ!』

提案したのは仁志の方だったけど、あの部屋に強く惹かれたのは和歌子の方だった。和歌子はあの部屋のシステムキッチンの、戸棚が薄緑色なところにこの上なくほれ込んだ。
だけど和歌子は、今はあのやわらかな薄緑色こそ見たくなかった。

昨日の晩、仁志はあの部屋から出ていった。
他に好きな人ができたから、その人と暮らすのだそうだ。
仁志は最後、苦しそうな微笑みを浮かべて和歌子にさようならを言った。そんな顔をするぐらいなら、何で和歌子を置いていくような真似をするのか、和歌子はつかみかかって問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。確実に罪を負っているのは仁志なのに、罪を感じて、罪のない和歌子に苦しんで見せるのはずるいと思った。

二人分のお給料で借りた、二人分の生活空間のある部屋に、和歌子はたった一人で取り残されてしまった。二人の思い出が満ちる部屋で、和歌子は一人泣き濡れた。泣きつかれていつの間にか眠ってしまい、目が覚めた瞬間のぞっとするような寒さと静けさに恐れおののいて、和歌子はあの2DKから脱出してきたのだ。

「2DKの部屋から脱出せよ!」

そんな脱出ゲームもあるかもしれないと思いながら和歌子は呟く。満喫のブース内のPCから、フリーゲームを探したりしてみる。
脱出するのは簡単だった。問題は、帰るほうが難しいことだった。

しかし結局、和歌子は帰るほかなかった。
満喫で一夜を超すだけの代金を持ち合わせていなかったからだ。15分だけシャワーが無料だったので、シャワーだけ浴びて和歌子は満喫を出た。

何かから忍ぶように、物音を立てずに部屋に帰り着いた。すぐさま、そっと寝床に潜り込んで、睡魔が迎えに来るのをじっと待った。お願いだから、仁志の思い出よりも先に迎えに来てほしかった。
和歌子が懸念していたよりもずっと簡単に睡魔はやってきた。一日中歩き回ったのだから、当然とも言えた。

仁志の夢は見なかった。たぶん。
ただ、見そうになる度に目を覚ましたので、ぐっすりは眠れなかった。

カーテンの隙間から差し込む朝日の中で目を開けた時、和歌子は朝が来ることへの絶望を久々に感じたことに気が付いた。

和歌子の背中を温めていた仁志の胸はもうなかった。
『おはよう』の声と共に和歌子の鼻先に触れる仁志の大きな鼻先はもうなかった。
シャンプーでもボディソープでも柔軟剤でもない、熱によってもたらされる人の肌の匂いももうなかった。
朝が来ることの全てを『幸福』の二文字で説明させてくれたのは、仁志の体温だったのだ。

「逃げなきゃ」

和歌子はまた2DKの部屋から逃げ出した。
けれど、なんで私が逃げないといけないのか、と和歌子は思った。
出ていくべきは仁志の方で、実際に出ていったのは仁志なのに。ここはもう、私の部屋なのに。

街の中には仁志との思い出が多すぎた。
ならばと日曜日の今日は、近所にあった大きな緑地公園に来た。

公園には、仁志と暮らしていたあいだも、よく一人で来ていた。一人になるために来ていた場所だった。
コンビニでコーヒーを買って、ベンチに座って、文庫本を広げる。
仁志と共に過ごす時間は幸福そのものだったが、和歌子にはときどき、その手のひらサイズの孤独が必要だった。

同じように、また和歌子は紙カップのコーヒーを片手に、ベンチに座った。木製のベンチは、石造りの腰掛けほど外気の影響を受けておらず、身が縮むほどの冷たさはなかった。文庫本は忘れてきたので、和歌子は公園の中を行き来する人々をただ眺めた。

小さな子どもがよたよたと歩いていた。その前で、父親と思しき若い男性が歩いていた。男性はしきりに振り返りながらゆっくりと歩き、ベンチの前にたどり着くと、細長い体を折って子どもの目の前でしゃがみこんだ。子どもを抱き上げた男性が、ベンチに腰掛け、膝の上に子どもを座らせ、左腕をお腹に回したり、右腕で子どもの足を伸ばして整えさせたりしていた。
和歌子はその子と目が合った。
丸く潤んだ目で、まばたきもせず和歌子を見つめていた。和歌子もまた、まばたきもせずその子と父親を見つめていた。

和歌子は、やがて夫になり、父になる仁志を何度も思い描いていた。父になった彼と、二人の間に生まれた子どもの後ろ姿を微笑ましく眺めている自分の視界を、なんども瞼の裏に投影した。

ああ、と思う。
その景色が見られるのは、もう和歌子ではない。
小さな手足に愛おしむように触れる仁志をそばで見つめることができるのは、和歌子ではない、名前も知らない女になってしまったのだ。

和歌子は俯いて、視界からその親子を逃した。

コーヒーと一緒にコンビニで買ったおにぎりを、膝の上に載せる。
そういえば、昨日朝起きてから、和歌子は何も口にしていなかった。何も口にしていないことすら気が付かなかった。
さすがにこんなに逃げ回っているのだ、それ相応に食べなければまずかろう。そう思いながら、薄いビニールの剥がして、海苔をこめに貼り付け、おにぎりを口元に運んだ。しかしどうだろう。和歌子の口は全くおにぎりを受け付けなかった。無理やりに黒い山のてっぺんを口の中に押し込んで咀嚼してみても、喉の奥や下にある食道がヒクつくばかりで一向に飲み下してはくれなかった。
和歌子は自分の体が、生きるための一切を拒絶しているように感じた。

何のこれしきのことで!

和歌子は情けなく思った。仁志のいないことを自分がそれほどまでに辛く感じているのかと、驚愕した。

ならば、と和歌子は立ち上がった。食べかけのおにぎりをビニール袋に入れ、ボディバックにしまい、緑地公園の中にあるハイキングコースを目指した。
鬱蒼と茂った木々の間にぽっかりと口を開けるように、細い丸太を横倒しに並べた階段が上へ上へと続いていく。山道へ続く、いくつかある出入り口のうちの一つだった。和歌子は自分の体を徹底的に動かして、否が応でも腹を空かせてやるのだと息巻いた。

一段一段、和歌子は大きく足を踏み出した。段差と段差の間は均一ではなくて、一歩で一段登りたいと思っているのに、たまにペースを乱されて二歩を費やさなければならなくなった。道中で、スポーツウェアのお年寄りが軽快な足取りで階段を下っていくのと何度かすれ違った和歌子は、対照的にぜえぜえと息を切らして階段を上っていった。
常緑樹の林冠の隙間から覗く空が、昨日と同じ真っ青だった。
和歌子は途中何度も、敷き詰めに敷き詰められた枯葉に足を滑らせそうになった。運動習慣がない和歌子の足取りは、カロリー不足によって輪をかけて覚束なくなっていた。

こんなことでは、逃げ切ることができないのではないかと思った。

「でも、逃げなきゃ」

体が熱くなっていた。着こんだ服の下で、脇や胸の間にじっとりと汗をかき始めていた。マフラーを外した。仁志からもらったマフラーだった。こんなものをつけていては、逃げられるものも逃げられまい。

とうとう上に続いていく道がなくなり、和歌子は頂上にたどり着いたように思った。息を整えながら、ゆっくりと歩き続けた。
途中で、行く手が三つに分かれた。適当に一つを選んで進み続けた。また今度は二つに分かれた。適当な片方を選んで進んだ。
和歌子は困った。道がわからなくなった。
和歌子は自分が方向音痴だったことを、五年ぶりに思い出した。

いつも、仁志が和歌子の行く手を先導してくれていた。和歌子はこの五年間道に迷うことと無縁だった。どこへ行くにも、仁志の腕に引かれていた。

和歌子は、木の根っこにけつまづいて転んだ。土の地面はやわらかかったが、鈍く和歌子の膝を痛めつけた。

『大丈夫か、ほら』

仁志は、ちょっとのことでもすぐに手を差し伸べた。和歌子も、いつもそれに甘えた。自分で立った方が早いようなことでも、仁志の手を取った。

「逃げなきゃ」

仁志の手から逃げないといけなかった。自分で立ち上がって、自分で歩かないといけなかった。和歌子は、ふりしぼるように立ち上がり、また行く当てもわからず歩き出した。

けれど、と思う。

和歌子をいまこんなにも苛んでいるのは、去ってしまった仁志との愛しい思い出だった。
けれど、この五年間、和歌子を導き、昔はあんなに恐れていた朝を幸せだけで満たしてくれたのは、仁志なのだ。
朝目覚めること、食べること、生きることへの希望を和歌子に与えてくれていたのは、他ならぬ仁志なのだ。

今、和歌子の悲しみは、確かに和歌子にとって真実だ。耐えがたく、逃れがたい真実だった。

けれど、一昨日までの和歌子の幸福もまた、ひとしく一昨日までの和歌子にとっての確かな真実だったのだ。
いつまでも信じていたい、明るい事実なのだ。

和歌子は立ち止まった。立ち止まって、静かに涙を流した。

この悲しみは、時がたてば勝手に、否応なく癒えていくのだろう。
けれど、仁志と過ごした五年間の幸福までもが消え去り、無かったことになってしまうのだろうか。
紛れもない真実だと思っていた日々が、嘘に塗り替えられてしまうのだろうか。

和歌子は、今この瞬間、そのことがどうしようもなく耐えられなくなった。

この思い出たちがどんなに和歌子を苛んだとしても、仁志との五年間が嘘になってしまうよりずっとましだった。

立ち止まって泣いていたら、汗が冷えて少し寒くなってきた。
和歌子は手に持っていたマフラーをもう一度巻いた。スマホの位置情報と、看板を頼りに、和歌子はなんとか山を下りることができた。

***

和歌子は2DKの部屋に帰り着いた。
今度はちゃんと音を立てて、しっかり戸締りを確認してから、靴を脱いで部屋に上がった。体は疲れ果てていた。

2DKの部屋はやはり広々としていた。
体を横たえて、壁や天井をぼんやりと見つめた。支払い能力に不安があるから、この部屋もいつまで住めるかわからない。そのうち引っ越さなければなるだろうななどと考えながら、泥沼に引きずり込まれるような疲労に、和歌子はなすすべなく四肢を預けた。目を閉じたら、和歌子は一人になった。

短いまどろみは、その短さに抗うように和歌子に長い夢を見せた。和歌子はその間、幸福だった。目を開けた和歌子の目尻に、少しだけ温かい涙がにじんでいた。

和歌子は体を起こした。そして、自分が腹を空かせていることに気が付いた。ボディバックに入れっぱなしになっていた、かじりかけのおにぎりのことを思い出して、もそもそと頬張った。和歌子の腹は、それでもなお空いていた。

「何か作ろう」

和歌子は立ち上がって、薄緑色のキッチンの前に立った。
冷蔵庫から適当な食材を見繕って、適当な大きさに切った。固形コンソメとともに鍋に放り込んで、ポトフを作った。

和歌子は、ローテーブルにポトフを鍋ごと置いて、その前に腰を落ち着けた。いつも二人分作っていたから、癖で二人分のポトフを作ってしまっていた。けれど、こんなに動き回っていたのだから、食べられるだろうと和歌子は思った。そして、やっぱり和歌子は平らげた。

和歌子の体に体温が戻ってきた。

いっぱいになって苦しいお腹を圧迫しないように、座椅子の背もたれに体を預けて、和歌子はゆったりと座った。
二人分の部屋で、二人分のスープを、和歌子は一人で食べた。
けれど、和歌子はもう一人ではないと思った。
自分が一人ぼっちだと思って嘆くには、和歌子は温かさを知りすぎていた。それをはねつけて孤独に浸ることを、和歌子は自分に許すことができなかった。

和歌子は立ち上がって、もういちどキッチンの前に立った。そして、そこに座り込んで薄緑色の戸棚を撫でた。ところどころ油が飛んで汚れた戸棚は、入居したときほどきれいな色ではなくなっていた。

人生からは、逃げることも隠れることも出来ない。
それならば、自分が愛したもの、愛したいと思うものに、精一杯向き合っていこう。

和歌子は微笑んだ。

そうして、薄緑色のキッチンで、ポトフを空けた鍋をきちんと洗った。



(おしまい)










いいなと思ったら応援しよう!