【短編】マダムの本棚
あのときはまさか本当に現実になるだなんて夢にも思わなくて、
それでも夢にくらいは見たくて、
その夢の味見をするような気持ちで何気なく口にしたつもりだった。
私の家にマダムの本棚がやってきた。
それが玄関の前までやってきた時、私は――呆然としか言いようのないめまいを覚えた。
もちろん突然やってきたわけではなく、それがやって来ることは一応事前には知らされていたものの、電話越しに聞かされるその物体の存在と、今目の前にあるその本棚は、どうあがいても同じ質量ではなく、つまりわたしは甘く見ていたのだ。
手際よく家の中に運び込まれるそれが、私の部屋の中にようやく腰を落ち着けると、いよいよもう圧倒されてしまった。
家とは言っても、要は古びたアパートメントで、それは私一人が寝食を繰り返すだけの目的が果たされていればあとはどうでも良いような粗末な部屋だ。
そんなところに、今、マダムの本棚が鎮座しているのだ。
「いかんともしがたい」。頭の中にそんな言葉が浮かんで、どんどん思考回路を圧迫していく。他の言葉を踏み潰して、私の脳の容積以上に広がっていく。
それはこの部屋に対する本棚も同様で、このこじんまりとした質素な部屋のなかで、マホガニーのマダムの本棚は、いかんともしがたい重厚な存在感を放ち、どんどん膨張していた。サイズ的には確かにこの部屋に収まっているのに、ひ弱な空間が本棚の威厳に耐え切れず、じりじりと輪郭を歪められてしまっているかのようだ。
私は途方に暮れた。
ああマダム。どうして私が、あなたの本棚が相応しいくらい立派な家に越すまで待ってくれなかったのですか。
本棚の前で座り込み、心の中でマダムに悪態をつきながら、
私はこのときはじめて、ようやくマダムの死を悼むことができたのだった。
***
『この家にあるもの、何でも一つあげると言ったら、何が欲しいかしら』
マダムにそう訊かれたとき、私は迷わず『マダムの本棚を』と答えた。
マダムの本棚は、それまでに見てきたどの本棚よりも素晴らしかった。
私は取り立ててできることがなく、家事しか能がなかったので、いろんな家々を渡り歩いて家事を代わりに請け負うことで身を立てていた。逆に、家事であればたいていの人には劣るまいという自負もあった。
色んな名前を自分に与えてきた。家政婦、家事代行、使用人、メイド、お手伝いさん。そのどれもが仕事にさしたる違いはなかったけど、それでもその仕事の呼び方で、確かに変わる振舞いもあった。
マダムのとき、私は使用人だった。けれどもマダムは、私に面と向かうときは「スミレさん」と私を呼んだ。
マダムの本当の名前は「常盤さん」だった。
しかし、初めてマダムの家を訪ねた時、彼女は「私のことは是非、『マダム』と呼んで頂戴」と言ったので、それ以来彼女はマダムである。
マダムの本棚は完璧だった。
どんな家にも、本棚はある。図書館の書架のように荘厳なものから、ベッドサイドに一段だけ備え付けられたささやかなものまで、どんな形であれ本棚は存在する。そしてそのどれもが、特有の魅力を備えていた。
例えば、歴史の研究をしているムラセさんのお家には、いくつもの大きな本棚に、歴史に関する本がみっちりと詰め込まれていた。見るだけで知識欲が刺激され、その場にいるだけで世界の広がりを感じられる本棚だった。
ミステリオタクのナナミさんのお宅には、国内の作家と海外の作家ごとにわけて本棚が設置され、やはりその中には上から下、左から右までみっちりとミステリー小説が収められていた。
忙しく世界中を飛び回っているハシモトさんの部屋には、ベッドサイドのラックに十冊程度の本が並べられていた。できるだけ身軽でいたいハシモトさんが、厳選に厳選を重ねた珠玉の十冊は、どれも塵や折れ目の一つもなく、ハシモトさんから愛おしさを注がれていることがよく感じられた。
しかし、ムラセさんの本棚は全てが読まれていたわけではなく、むしろ研究資料のストックとして、半分くらいのものは未読のまま収められているだけのものだった。彼の本棚は持て余しているページの多い大きな大きな辞書のようで、彼自身の頭の中身とその本棚の間に大きな隔たりを感じた。
また、ナナミさんの本棚も、「ナナミさんの本棚」というよりは「ミステリオタクの本棚」で、必要以上に取り繕われて背伸びを強いられているように見えた。
そして、ハシモトさんの本棚は、あまりにも本と本の間の欠落を多く感じてしまった。一冊一冊が寵愛を受けている素敵な本棚ではあるけれども、それらがそこにいたるまでに、ハシモトさんがこれまでの人生で彼方に置き去りにしてきてしまったものの多さを想い、寂しくなってしまったのだ。
それらの多くの本棚との出会いを経て、マダムの本棚を目の前にした時、私の口から思わずため息が漏れた。
それがマホガニーでつくられた質のいい調度品であること。何段もあるが一つの本棚だけにすべてが収まっていること。すりガラスを通したやわらかな朝日に照らされて艶めいていること。そうした見た目的な印象ももちろん私が嘆息するに足る要因だった。
しかし何よりも私がときめきを感じたのは、その中に童話が何編か収まっていたことだ。
マダムの本棚には、マダムが物心ついたときから彼女が読んだ本のほとんどすべてが収まっていたのだ。童話、児童文学、小説、詩集、専門書、ビジネス書、果てはレシピブックまで!
マダムの本棚は、マダムがマダムたる所以・変遷を全て反映した、いわばマダムの精神世界のバックアップ・ストレージだったのだ。
そして、それに私が深い魅力を感じたのは、私がマダムを敬愛し、心酔していたからに他ならなかった。
マダムとは、どの雇い主よりも長い時間を一緒に過ごした。
『スミレさん、頭でっかちになっては損よ』
マダムは二日に一度はお茶を淹れてくれて、私たちは二人で幾度となくそのお茶を囲んで語らった。もちろんマダムはマダムを自称するだけあって、淹れられるお茶は絶対に紅茶であり、日本茶であったことはなかった。
ダイニングチェアに腰かけて紅茶をすすりながら、マダムは言った。
『大人になると何でも知識ばっかり増えて、歩くことより先に考えることの方が簡単になってくるの』
二十歳を超え、大人になりかけていた私には、マダムの言いたいことの半分くらいはきっと理解できていた。
『でもね、考えて出せた答えに満足して、歩くのをやめてしまったら損よ。その答えが、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、実際に歩いてみた結果は、絶対に完全にはその通りにはならないの』
マダムは決して「だめよ」とは言わずに、必ず「損よ」と言った。それが意図的か無意図的かはさておいて、それはマダムの中を貫く美学だったような気がする。
ねえスミレさん?
呼びかけるマダムの微笑みが脳裡に蘇る。
今や私の本棚となったマダムの本棚の一番左上の一冊を手に取って読みふけりながら、お話を味わうのとは別に、私はずっとマダムの言葉を思い出していた。
実は私の部屋の中の時間は、このところ長らく止まったままだった。
そこにマダムの本棚が来たからと言って、急にこの時間が動き出すわけではなく、ただ止まった部屋の中に同じく主を失って止まってしまった本棚がねじこまれただけだ。
それは窮屈で不安であるのは確かだったが、
航路が定まらずぐらぐらと覚束ない船体から、確固たる碇が降ろされたみたいに、とりあえずそこに留まることをもうしばらくだけ許してもらえたような心地がしたのだった。
その日から、マダムの蔵書を読み漁る日々が始まった。
***
マダムが何を生業としていた人なのか、私はよく知らなかったし、結局今でさえわからない。
ともかく理知的な人であったから、どこかしらで教鞭を取っていたとも考えられるし、何かの研究をなさっていた可能性もあるし、どこかの会社の経営をなさっていたと言われても頷けた。
しかし、私とマダムはいくつもいくつも言葉を交わしてきたけれど、マダムの仕事についての話は一度も出てくることはなく、話題から推察することさえかなわなかった。あるいはもう、働かずとも良いくらいの家柄のお人だったとも考えられる。
マダムの家、家具、持ち物は全て気品があり、それらは私をいつも惚れ惚れさせた。まだ年若かった当時の私には、その目の貧乏舌ゆえに何もかもが格別に甘美に思えるのではないかと考えたこともあった。
しかしあの頃マダムの周りに設えられていたものは、こうして年を重ねた後でも、むしろ年を重ねるほどにその価値を実感できるほど、洗練された品々だったと思う。
一目見た時から、私はここを"城"にしたいと思った。
私が家事代行をしていたのは、それが得意だったからというのはもちろんだが、いつか自分の"城"を作るという夢を叶えるときの参考のために、いろんな人の家を見て回りたいという思惑もあった。
"城"というのは本当にキャッスルではなく、自分の好きなものに囲まれ、穏やかに暮らすことができる、ただ心豊かな生活を描くための場所のことをそう呼んでいる。
そんな私にとって、マダムの家は、私の中に漠然とあったまだまだ青い理想を、悠々と塗りつぶしていくだけの衝撃と訴求力があったのだ。
雄大さや高級さを以てそう言うのではない。
一つ一つの物たちのシックな調和と、大きな窓から差し込む、太陽からの慈愛のおこぼれが満ちる空間が、私の心をぐっと掴んだ。
いつか、マダムの家のような"城"を築きたい。
そして私自身も、マダムのような人になりたい。
私はマダムの暮らしぶり魅了されてはいたが、それ以上に、彼女の教養高さや博愛に満ちた眼差し、さっぱりとした考え方、他愛もない会話の端々に踊る言葉選びなど、その内面に支持された部分に強く酔いしれていた。
ずっと、そんな彼女の内面世界が何に裏打ちされているのかが気になって仕方がなかった。そこで私が長らく目を付けていたのが、広間に置かれた彼女の本棚だったのだ。
当時の私は、それはそれはしつこいくらいに、マダムの本棚の手入れをこまめに行っていた。マダムの屋敷は大きく、とても一日では全ての場所の掃除はできないくらいだったが、どんなにへとへとでも、毎日本棚のチェックだけは欠かさず、ほこりの一つでもあれば取り除いた。マダムの目から見てもきっと、私のその目のかけようは、執着と呼べるほどだったと思う。
そんなだったので、私は一も二もなく本棚を欲しがった。そして、マダムの方も、私の執心ぶりからして聞かずともわかっていたはずだ。
それでも本当にもらえるだなんて露ほども思っていなかったのは、当然私はマダムの肉親でも何でもないからで、マダムが亡くなったら、彼女の所有物の一切の権利は彼女の一人息子に渡るはずだったからだ。結果として、マダムは遺言状に本棚と蔵書を私にと書いてくださったらしく、幸運にもマダムの本棚は私に届いたわけだが。
マダムは当時、あの屋敷に一人で暮らしていたが、ずっと昔は一人息子と旦那様――つまるところムッシュウがいらっしゃったらしい。だが、ムッシュウとは何かとそりが合わず、結局離婚なさったそうだった。
『これは別れた主人が――つまり私がマダムならムッシュウなのだけれど、その人が好きだったシチューなのよ』
自室でよく使いこまれたマダムのレシピブックを眺めながら、私はふとそんな言葉を思い出してしまった。
日々の炊事は基本的に私の務めだったが、マダムは気まぐれに私に手料理を振舞ってくださることがあった。『気まぐれに料理するのが一番楽しくていいわ』とマダムはよく言っていた。
その何度かあった気まぐれのうちの1度、彼女が私に作ってくださったのが、そのページに載っていたほうれん草のシチューだったのだ。
『でも勘違いしないで欲しいの』
マダムは言う。
『今もこうしてこのほうれん草のシチューを作っていても、決してムッシュウのことを思い出すなんてことは、ないのよ。だたムッシュウに何度も作っているうちに、もうこれはプロ顔負けじゃない?というところまで腕が上がってしまったの』
あたたかな湯気を立てるマダムのシチューは、口に運んでみるとなるほどおいしく、マダムの言うことは全く誇張ではなかった。歯と舌に触るあの小さく浅い木のスプーンの質感まで、マダムのシチューとセットの記憶として残っている。
『つまりあの人のために磨いた腕を、もう自分のために使うことにしただけなのよ。……でもね、男の人って妙なとこ女々しくて――今もムッシュウの好物をこうして一人で作っては食べてるなんてもし知られたら、絶対に勝手なノスタルジーを私の中に見るに決まっているのだから、それだけはいつも癪に思うわ』
と、マダムはいつものようにダイニングからとっぷり暮れゆく窓の外を眺めながら、ひと息に捲し立てて憤慨した。
それに対して私がただ相槌を打っていると、マダムはあっと気づいたように片手で口を覆い、『一人ではなかったわね』と顔を綻ばせるのだった。
私は本棚の前から立ち上がり、ひとり、アパートの粗末なキッチンの前に立った。
マダムのレシピブックは、ほうれん草のシチューのページに癖がついており、調理台の上の隅に広げたそのレシピは労せずそのシチューに留まり続けてくれた。
私は忠実に調味料を測り、ネット通販で買ったほうれん草を切り、小麦粉をバターで炒めた。そして出来上がったシチューを食卓の上に運んだ。ミルクの柔らかい匂いが、鼻をくすぐる。
私はそれを口に運ぶ。マダムの家のような木のスプーンは我が家にはなく、中途半端に温もったステンレスのスプーンは、かちりと下の前歯に当たった。
そのシチューはやはりマダムのものには劣り、今一度彼女のシチューのおいしさを痛感させられることになった。
そして、あれは私の目の前にマダムがいたからこそ、ああまで胸が温かくなったのだということには、できれば気付かずにいたかった。
「……でも勘違いしないで欲しいの」
歯の間に挟まるほうれん草を舌で撫でながら、私は口を開いた。
「今もこうしてこのほうれん草のシチューを作っていても、決してマダムのことを思い出すなんてことは、ないのよ」
言い切ってしまえば、それはどこからどう考えても全くの嘘で、私にはマダムと結びつかないほうれん草のシチューなどあり得はしなかった。『嘘おっしゃい』とマダムにけらけらと笑われた気がした。
そして、今になって彼女のあのセリフをなぞったことで、あの言葉は、必ずしも額面通りではなかったのかもしれないなとも少し思い、それだけはなんだか微笑ましかった。
マダムに雇われていた日々から何年もの歳月が行き過ぎ、私もマダムと同じに結婚に失敗していた。
もとい、彼女なら「結婚に失敗した」などという表現はしないだろうから、「同じに」というのは少し語弊があろう。
元夫はもともと私の雇い主で、彼の元で働いていた頃、ちょうど私は重なるようにしていろいろなものを失ってしまった。一人で立っていられなくなってしまった私がつかまることができる人は、もはや彼しかおらず、気が付いたら私は従業員ではなく妻としてその家で暮らすことになっていた。
そして彼の家を出て、このアパートに越してきてからというものの、私の時はずっと止まったままでいる。家事代行の仕事さえ、今はしていない。
私も「何かとそりが合わず」という説明で済ませられれば良かったものの、私の場合は彼の家から、ほとんど命からがらこのアパートに逃げ込んできたというのが近かったのだ。
あの日、深い海のような夜に向かって航行していくタクシーで膝を抱えながら、その時でさえ私はやはり、マダムのことを思い出していた気がする。
私はなぜ、マダムのもとでの仕事を辞したのだったか。
疲れ切ってぼんやり、ぐったりした頭は、もはや答えなど見つけられぬような甘い痺れの中に絡めとられ、ただただマダムの家で飲んだダージリンの渋さと、その奥に秘められたささやかな甘みだけが未だに舌に残っているような心地がした。
私は新しい棲家に、彼からもらった結婚指輪を持っていった。
最初は、生活に窮したときに売れるものとして持って来たつもりだった。
でもそれ以上に、その指輪を取り出してただ眺める目的に使うことも多々あった。
それは、彼との生活を選び取ってから失った時間や気力、自分の胸の中にあった夢の灯への郷愁だった。
そして、マダムと共にあった頃の、人生で一番豊かで、きらきらと輝いていたころの自分への懐古と羨望だった。その指輪は、今の自分と、もう戻らないほど遠く過ぎ去ってしまった自分との間をつなぐ、折れ曲がった線の上にあるターニングポイントの象徴なのだ。
それこそ「勘違いしないで欲しいの」だ。決して彼への思いなどではなく――
私はもう一度手に入るものなら、全てを、もちろんこの指輪を投げうってでも、
もう一度マダムとの生活を、ここに手繰り寄せたかったのだ。
そしてそれはもう二度と叶わぬものだということの証明として、今私の目の前には、あれほど渇望したマダムの本棚が立ちふさがっている。
***
私はマダムの足跡をたどるように、彼女の本を読んだ。
『赤毛のアン』に始まり、無名の児童文学や、直近の芥川賞受賞作。
マダムの軌跡をなぞるように、私はひたすら文章を目で追い続けた。それはもはや読書と呼べるようなものではなく、ただ広漠たる暗い森の中で、マダムの後姿を探してあてどなく走り回っているようなものだった。
しかし、いくら読めども読めども、本の中にマダムの姿は見つからなかった。彼女は確かにここを通ったはずなのに、どちらの方角に向かって、今どこにいるのか、全く見当もつかないのだ。
これを読めば、私の精神はきっとマダムに近づくはずなのだ。けれど、私の仮説は、一冊読み終えるごとに心許なくしぼんでいった。
マダムの価値観はどうやって醸成されたのか。
マダムが私に教えてくれたことは、どこに起源があるのか。
マダムの居場所。その答えは全て、この本棚の中にあるはずだったのだ。
それがどうしたことだろう。
本棚の一番右下の一冊。つまりマダムの本棚の、最後の一冊。
全ての蔵書を読み終えてなお、私はマダムの影を踏むことすらできなかった。
私は最後の一冊をマダムの本棚に戻し、四肢をだらり投げ出して床に寝転んだ。硬い床の上に接する肢体をさらに床の中へと引き摺り込むような徒労感に、なすすべなく体を預けた。
私は寂しく、悲しかった。私の体の中は、ぽっかりと全て空洞になってしまった。
マダムはどこに行ってしまったんだろう。
寝転んで天井を見上げていても、マダムの本棚は視界に入ってくる。なんたる威圧感だろう。
マダム亡き今、せめてもの形見であるこの本棚が私の手元にある。これほど喜ばしいことはない。
しかし、今はまだ私の部屋にマダムの本棚はどうにも不釣りあいだった。そのプレッシャーに圧倒されながら生活を営んでいくことを考えると、憂鬱な気分にならざるを得ない。それはマダムという人が落とした影の大きさに苛まれながら生きていくことと同義のような気がした。
そこで私は、不意に一瞬何か引っ掛かりを感じた。そしてその正体に思い当たって「ああ」と声が出た。
『今はまだ』
私は体を起こした。脳と視界がぐわんと回り、再び目の前に本棚が聳え立つ。
私の"城"を、作らなければ。
ぼんやりと霞がかった頭の中、とても遠いどこかで、たった一瞬の思い付きが煌めいたのが見えた。
それはどこにあるのかわからないほど遠い場所であったけれども、私の胸には確信に満ちた期待があった。短針と長針と秒針が一つ所に集まり、今、一斉に動き出そうとしている予感があった。
しかし――と、私は思った。
私はもう随分と、ちゃんと外に出ていなかった。いい年をしてお金を稼ぐことから離れてしまい、貯金ももうほとんど残っていない。再び家事代行の仕事を始めたとしても、それで生計を立てながら家を買う資金が貯まるまでには、きっと途方もない時間がかかる。いや、むしろ一生かかっても、そこまての経済力に到達することは出来ない気がする。
マダムの家のような"城"を目指すのならば、尚更。
諦めるべきだと思った。
けれども――けれども。どこを探しても見つからなかったマダムが、その一瞬、また私の中に降り立って、私に紅茶を淹れてくれた。
私とマダムの間に、もうもうと湯気が立ち上る。
『考えて出せた答えに満足して、歩くのをやめてしまったら損よ。その答えが、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、実際に歩いてみた結果は、絶対に完全にはその通りにはならないの』
本当のところ、マダムはお茶を淹れるのが上手くなかった――いや下手だった。
ダージリンならいざ知らず、どうしたらアッサムをこんなに渋く淹れられるのか不思議に思いながら、それでも私はいつでもこう言った。
「……はい、マダム」
私は家を飛び出した。
しばらくぶりに外に出て、自分の足で街を歩いた。
マダムの教え通りに歩いた。
実際に歩いてみた町は、花が咲いて色に溢れていた。甘く爽やかな香りが、風に乗って流れ出し、瑞々しい気配が辺り一面に漂っていた。
のどかなせせらぎが聞こえる小川があった。
子どもたちが水や小石と戯れていた。
新しい店があり、活気にあふれていた。
気づかぬ間に外はすっかり春になっていた。私の部屋に立ち込めていた淀んだ冬の空気は既にそこにはなく、春一番によって連れてこられた新しい光に満ちていた。
――そして私は、随分と遠くまで歩き、町のはずれの一軒家の前で足を止めた。
それは売りに出されていた中古住宅で、少々築年数が経過しているもののように見えた。
開けた土地に立つその家は、よく日を浴びていて気持ちよさそうだった。
しかし何よりも私の足を止めたのは、その家に据え付けられた大きな窓だった。
私はそっと足を踏み入れ、家に近づいていった。
まばらに生えた雑草と砂利が踏みしめられて靴底で弾け、ザリザリと音を立てた。草が潰れる青い匂いと土の湿った匂いがふわりと立ち昇り、私の鼻腔をくすぐった。
一歩、また一歩と前に進む。
とうとう窓辺までたどり着いた私はへりに手をかけて、おそるおそる中を覗き込んだ。
中は当然がらんどうで、何もないし誰もいない。
しかしだからこそ、真っ白なキャンバスにどんなものでも描き出せるように、私はその中にマダムの家を見た。マダムの本棚も、寛いだようにそこに身を置いていた。
そしてその中で、たっぷりと窓からの日差しを浴びたマダムが、木製のチェアに座って紅茶を飲んでいた。
その様を見て、私の喉から、口から――ふっと息が漏れた。
ああ、マダム、こんなところにいたのですね。
中古の家は、もちろん安くはない。容易に手に入るものではないだろう。
けれど私は、この家の中に"城"を作るためならきっと、どれだけでも泥臭く藻掻くことができるだろう。夢の灯が、もう一度自分の中に宿るのを感じ、私はそっと胸に手を当てた。
私は辺りを見回した。
ところどころ芝の剥げた庭。荒れた花壇。タイヤ痕のついたコンクリート。
とても品があるとは言えないけれど、愛おしい土地。
気付けばその窓の下、私の足元には、いくつかの地植えの菫が咲いていた。勝手に咲いたのか、もとの家主が植えたのかはわからない。
私は窓の中の景色を名残惜しむようにしばらく眺めてから視線を外し、そっとその場にしゃがみこんで、菫の花弁に人差し指でそっと触れた。小さな葉から細い茎を伸ばした菫は、濃い紫の花を咲かせ、花弁は自重に耐えかねて俯くように下を向いていた。
「菫さん、頭でっかちになっては損よ」
マダムの笑い方を真似て、私は微笑んだ。
マダムは、本棚の中にはいない。
マダムはいつだって、自分の足で歩いていかないとたどり着けない場所にいて、私の先で笑っているのだ。
ねえ、スミレさん? と。
私はもう一度しっかりと立ち上がり、眩しい日差しに手をかざしながら口を開いた。
「はい、マダム」
(おしまい)