日本の歴史を「よみなおし」、茶道のこれからを考える②
前回は、日本の歴史を特徴づける農本主義と、並行して存在していた重商主義について紹介しました。文書を細かく検証すると、重商主義(水運を利用した交易や金融で台頭した勢力)は従来考えられいたものよりもずっと影響力があり、権力を翻弄してきたことがわかりました。
では、このようなふたつの流れの中で、茶道はどのように生まれ、発展してきたのでしょうか。ここには、重商主義という流れのもとに発展した宗教、商業、そして芸事をおこなう人々が深く関わっているようです。
今回は、茶道の誕生を支えた人びとやその背景について探っていきたいと思います。
天皇のふたつの側面
農本主義と重商主義、それに呼応するかのように、天皇にも同じように、中国から輸入された律令的な側面と、古来から受け継いできた側面の2つの顔があると言われています。
ひとつは、律令制度の上にたつ「貴族の合議体の頂点」としての天皇。一般の人民を公民として支配する律令制のトップです。公そのものの性格を持っているとも言えますね。班田収授の制によって公民に田地を与え、公田とされた水田から租税を取ります。
天皇 --> 合議体のトップ --> 公 --> 租税 --> 稲
いっぽうで、租税とは異なり、贄という制度もありました。海民や山民が、その時期に最初にとった獲物を「初尾」として神に捧げる儀式をし、天皇はこうした贄を実際に食します。神社へのお供物を食べるということから、天皇は神に準ぜられる存在として考えられていることがわかります。こちらは、「神聖な王」という側面です。
天皇 --> 神に捧げられた贄を食べる --> 神格化
天皇に神聖なものを感じるというのは、これはその時代だけのことではなく、今でもわたしたちの中にある気がしますね。
金融の神性
海民や山民による、最初にとった獲物を「初尾」として神に捧げる儀式ですが、これは米でも同じ制度がありました。そして、これが日本で金融の始まりと考えられています。
これが公出挙として国家の制度となり、春に農民に貸し付け、秋に利稲をつけて蔵に返させることで、地方財政のもとにもなりました。
人間の力を超えたものと触れ合うときは、神にお返しをする、こういった考え方は自然との付き合い方から発生しているようにも思えます。
さて、金融という行為そのものに神性があるということは、それに関わっている人びと、つまり神社や寺で金融をおこなう人々にも、聖なるものの直属民と考えられたようです。日吉神社で初穂の管理をおこなう人は日吉神人、延暦寺での人は熊野神人など「神人」と呼ばれていました。これらの人々は、神仏に直属するということで、さまざまな特権も有していたことがわかっています。
市場の神性
では、金融に神性があるのであれば、銭や銭を使う場面はどうなのでしょうか。やはりここでも、「銭」にも神性が宿り、銭と物の交換の場である「市場」にも、神の性質があると考えられていました。
現代の私たちにとっては、物をお金で購入することや、物と物との交換に何の疑問も感じません。しかし、貨幣が当たり前でない時代には、普通の状態では実現できなかったと言います。
それは、モノとモノを交換する行為自体が、どうしても人と人の結びつきが強まる「贈与互酬」の関係になりがちだからです。贈りものをしたら、相手からお返しをもらうという行為になってしまう。これだと単純な商品の交換にはなりません。
そのため、モノの交換を成り立たせるために、古来の日本は「市場」という場を、人と人との関係から独立させ、日常の世界での関係の切れた「無縁」の場にしたといいます。
モノを世俗の縁から切ることで、「無縁」の状態にし、モノとモノの交換を可能にする。モノにせよ人にせよ、いったん、神のものにしてしまう、誰のものでもなくしてしまう。そうすることで、物と物との交換を可能にしたんですね。
こういった市場には「無縁」という特性のため、あらゆるルールからも解き放なたれていました。
市は、神々と交わる聖域として、交易の場でもあり、芸能の場でもあり、自治的な平和領域でもありました。不思議なことに、こういった要素は、日本だけでなく世界中の市にも見られたそうです。
無縁の場での宗教
では、市場に関わる商人や金融業者に支持された宗教はどういうものだったのでしょう。そのひとつに、時宗というものがあります。
時宗を開祖した一遍の教えは、信じていても信じていなくても、穢れていても穢れていなくても、善人でも悪人でも、「南無阿弥陀仏」という念仏のお札を受け取ればすべての人が救われると説きました。親鸞の悪人正機説からさらに進んだ、すべてを肯定した一元論です。
だから、誰もが念仏を唱えれば救われるという教えは、いわゆる国から悪人とされていた人たちや、商人・金融業者にも魅力的に映ったのでしょう。当時穢れた存在にされつつあった女性も信者になったし、差別の対象となった非人も支持しました。
時宗の布教の仕方は独特です。人が集まる都市を中心にして、交通のネットワークをうまく使いながら、遊行(旅)をして布教します。のちに、阿弥号をもつ時宗の信者は、芸能面において優れた功績を残しますが、当時の芸能が集まる市を中心に布教していたという要因は大いにあるのでしょう。
阿弥という存在
市での布教の一方で、時宗は鎌倉時代の末期以降、従軍僧としての側面もありました。鎌倉幕府が楠木正成を河内千早城に攻めたとき、この軍隊に従う時宗の僧が二百人もいたと言われています。
むろん従軍したのは、宗教的な目的のためであり、戦で亡くなった武士のために念仏を授け菩提を弔うためです。主君からの要望で、刀の切り傷の手当までしたそうで、こういった時宗の僧を武将は最後を看取る役として、手厚く同道していました。
そして、時宗の僧は和歌や連歌など文芸・芸能にも才能を発揮したというもいわれています。
定かではありませんが、戦がないときに従軍僧が、主君から文芸や芸能を求められることがあり、そのまま芸術や文芸の才能が発達したとも言われています。
いずれにしろ、武士に同道された時宗の僧たち、そして市場を中心に芸能民や商人たちを取り込んで布教した時宗の僧たち、こうした流れで段々と室町時代に「同朋衆」と呼ばれる一芸一能に秀でた、阿弥号を持つ存在が生まれてきたのかもしれません。
やっと、ここで茶道とも繋がります。阿弥号をもつ「能阿弥」は優れた唐物の目利きであり、会所での茶道のあり方を整備した存在ですね。利休自体にも時宗とも関わりが指摘されています。
律令から外れて大きくなった勢力である重商主義という流れがなければ、市場も発展しなかったですし、その自由な場での金融や商業や芸能もなかったでしょう。本を読むまで、「重商主義」がこれほどまでに茶道との歴史ともつながっていたとは知りませんでした。
今回は、茶道の誕生を支えた場や宗教についてお話しました。次回は、これらを踏まえて、近代の茶道についてもお話したいと思います。(長い……)