日本の歴史を「よみなおし」、茶道のこれからを考える①
その世界に入っていると、見えているようで見えていないことってたくさんあるなぁ、と感じることがよくあります。茶道もしかり。
たとえば、少し前に開催されていた、落合陽一さんの茶室「ヌル庵」での体験。都心のギャラリーの一角に作られた、音と映像がボワンボワンする茶室でのお茶会は、これまでのお茶の世界では味わったことのない、それでいて茶道のエッセンスも感じる新しい経験でした。
よく「茶室は宇宙だ」と言われることがありますが、ヌル庵を表現するならさながら「ドラえもんのポケットの中」のよう。その空間に身をおき抹茶とお菓子を食べていると、不思議な気持ちに包まれて、たまたまその場に一緒になった若いカップルと「なんだか違う次元に入ったみたいですね」なんて笑い合ったりもしました。その瞬間・その場に居合わせ人たちだけに流れる特別な感覚、それは茶室でよく感じるものと一緒でした。
とはいえ、ヌル庵に来ている客層は、明らかに茶会によくいるお客さんとは違います。異なる切り口で、茶道に関わりのなかった若い人々を強烈にひきつけているみたいです。どうやら、テクノロジーの進化によって社会構造がガラリと変化しつつある今、茶道の世界にも、中にいると見えない大きな変化が起きているのかもしれません。
未来を知るには歴史から……。ということで、今回は網野善彦さんの「日本の歴史をよみなおす」から、これまでの日本をまさに「よみなおし」て、茶道のこれからを考えてみたいと思います。
日本を形づくってきた2つの流れ
昔々の日本の風景を想像してみたとき、どんな様子が頭に浮かぶでしょうか。私は、学校で習ったときに教科書で見た、田畑で米を耕している農民の姿を思い浮かびます。
そして、稲穂がたれる里山の風景。まさに「米の国」ですね。実際、江戸時代まで、米は貨幣の代わりにもなり、すべての価値の基準となってきました。
一方で日本は「海の国」という側面もあります。海に囲まれたこの島国は、実は国内や海外との交易を通じてさまざまな発展を遂げています。でも、どうもわたしたちの脳裏には、江戸時代までの民の大半は農家というイメージばかりがつきまといます。なぜなのでしょうか。
それは、7世紀「日本」という国号を定めた始まりの時期に発端があるようです。
律令国家になる前の日本は、大王を頂点としてゆるやかに統合され、序列ができはじめていました。かなりの比重で海の民・山の民がおり、すでに交易や手工業に携わるひとも多かったと言われています。
そもそも日本の地形は、現在よりもずっと内地の奥深くに川が入り込んでいて、水の交通がだいぶ発達していたようです。実際、大王が動いた足跡をたどると、越前、近江、尾張、美濃まで動いていて、古墳時代には川と山を中心にしたネットワークがしっかりできあがっていたとのこと。当然、人も動けば、物も風俗も情報も動く。海や川や山のルートととともに交易や交流が活発でした。
にもかかわらず、中国大陸の律令を受け入れた日本は、海や川ではなく、陸上交通を基本しして水田を基盤にした租税制度を敷きます。
しかし、実体にそぐわず強制的に作られた制度は、ほころび始めます。陸上交通が中心だった制度は、8世紀前半には川と海の交通が認められはじめ、9世紀にはそれが交通の主軸になりました。国は流通と商業を統制下におこうと市を交易の場として公認しますが、統制下以外のところで、人と物の流通と独自の交易がさかんにおこなわれたようです。
次第に力を持つ、私的なネットワーク
9世紀になると、国家の制度は形骸し、官僚制的な地方制度が実質崩壊。税の納入は自分の責任で請け負うことになり、諸地域の物資は独自の海上交通ルートを通り、官僚と関わりのある専門業者が運び、蔵での管理も専門の金融業者が商人が請け負うことになりました。
国が管理しようとしたけれど失敗し、むしろ私的な業者が独自の交通ルートでさらに発展。商人たちが唐物をせっせっと手に入れていたという背景を見ると、時代は下りますが、利休の町「堺」の発展も頷けます。国よりも商人たちのほうがお金持ちなんですね。
映画「ゴッドファーザー」のシーンみたいです。このマフィアのようなネットワークには、比叡山の山僧や山伏も含まれており、神仏に関わる組織も大きく関わっていました。神様に捧げる上文米を資本に、貸付などを行えたので、神仏は金融業者でもあったのです。
金融ということは、もちろん僧侶たちは数字にも強かったとのこと。記録からは、収入と支出の計算や帳簿作りなどの経営の仕事をこなせる人材が、禅宗・律宗・浄土宗・山臥に多かったことがわかっています。
農本主義と重商主義の対立
もちろん国家権力は、管理下から外れたこうした商人や金融業者のネットワークを容認しません。お触れを出したり、武力的に弾圧したり、何度も何度も抑え込もうとしてきました。
逆に、これらの組織を取り込んでいこうとした動きもありました。北条氏は、主従関係で結ばれた組織によって管理する「農本主義」的な支配ではなく、自分の家臣ではない金融業者(山僧)を代官にしたり、船に特権を与えて交易の上前をとるなどをしていきます。こうして、13世紀末には唐船派遣は北条氏の独占となり、有力な港はほとんど北条氏のものとなります。
結局、北条氏はうまく取り込むことができず滅びますが、今度は後醍醐天皇がこうした路線を引き継ぎ、商業・金融に基礎をおいた政治を進めます。
農業を重んじる農本主義と、交易や商業を重視する重商主義。この2つの考え方は、日本の歴史の中で時に対立し、時に取り込みながら、現在の日本の姿を形作ってきたと言えるようです。
後醍醐天皇のあとは、足利義満の政権が同じく重商主義を貫きますが、織田信長の時代になると再び農本主義へと戻ります。
農業・土地を中心に日本を固めていくやり方と、海を舞台にして日本列島の外にまで貿易のネットワーク広げる商業のやり方は、真っ向から対決。ついに、信長・秀吉・家康の路線の勝利に終わり、海のネットワークはあちこちで断ち切られ、海を国境とする「日本国」という統一体ができあがるのです。
ここからはご存知のように、江戸時代では石高制にもとづく年貢-租税を徴収する方式がかたまり、農本主義が主要な潮流になります。
茶道はどこで生まれたか
さて、こういった2つの動きのなかで、茶道はどこで生まれ、またどのように利用されてきたのでしょうか。やはりここにも、「重商主義」が深く関わっているのです。重商主義を支えたネットワークである、宗教、商業、そしてその周辺にいた芸事をおこなう人びとたち。
けれど、長くなってしまったので、今回はここまで……。次回は、天皇の2つの側面と神人の存在が、茶道の発展にどのように関わってきたのかを探ります。