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泣きたくなる夜に読んでほしい

こんばんは。有紀佑です。

大それたタイトルですが、わたしが何だか泣きたくなったから書いています。
でも、もしかしたら、おんなじ気持ちの人もいるかもしれない、いたらいいなって思って書いています。

書き始める前に、軽く自己紹介を。

有紀佑(ユウキユウ)といいます。年齢は23、性別は女。演劇が好きで、表現活動を仕事に生きていくのが今の目標です。


深夜、ふと考えることがあります。
これを言葉にしたことは今まであんまりなかったのですが、こんな夜にひとりで持っておくには持て余すので、誰かに聞いてほしいのです。

いきなりですが、


ネクライトーキーというバンドの『夏の雷鳴』という曲にこういう一節があります。

前提として、わたしはこの曲がすごく好きだということを理解した上で続きを読んでほしいです。

その歌詞はこれです。

ほらこんなに面白いことがあるよ
そう君が何も作らなくてもさ

ネクライトーキー『夏の雷鳴』


この歌詞が物悲しい夜に思いっきりわたしの心を抉ってきます。これを、曲を生み出す人たちが歌っているのが。余計に。

これを読んでくれているあなたはどう思うでしょうか。


わたしは「確かに」と思ってしまうのです。

世の中には既に数多くの天才や秀才が面白いものを生み出していて。わたしもそれを享受している側の人間で。
今更わたしが何かをつくらなくても、別に誰も困らないし必要がないんです。


確かにそうなんです。

でもそこで毎回考えるのは、「ではなぜわたしは何かをつくろうとしているのか」という問い、わたしの創作する理由についてです。


小学校3年生のとき。
テレビドラマが好きだったわたしは、父のパソコンを借りて、好きな役と自分が出演する、そんな理想のドラマを妄想して書いていました。
恥ずかしくて両親にも誰にも話したことはなかったですが、思えばそれが原点だった気がします。

中学生のとき。
いわゆる厨二病というやつだったわたしは、自分が無双できる世界を創作することに熱中しました。強い自分に憧れて、でも現実ではどうしようもなくて、創作の中に強さを求めました。
ここでも創作世界の話は周りにあまりしていませんでした。

高校生のとき。
たまたま見学した演劇部で、演劇に興味を持ちました。脚本が書いてみたいと思って入部しましたが、部員が少なすぎて役者もやることになりました。
ここで初めて自分の書いた作品を人に見せました。自分の世界が具現化した事実に衝撃を受けました。その世界に自分が立っていることも、うれしかったのを覚えています。

大学生のとき。
自分でもっと書いて演じたくてサークルを作りました。友達を集めて始めたゆるいサークルでしたが、自分の世界をつくれるのがうれしくて、世界に入れるのがうれしくて、それを知ってもらえるのがうれしくて、たくさん書きました。
コロナもあって、思うようには行きませんでしたが、それでもいろんな友達や知らない人に見てもらえる感動を味わいました。

そして今、社会人の年になってもそれは続いています。土日に集まって稽古をして、演劇をしています。
メンバーも公演予定も決まってないのに新しい脚本を書いています。

ひとりで誰にも言わずにしていた創作活動がいつしか人生の目標になりました。



こうして過去を振り返って思うのは、創作活動は自分にとって『現実逃避の場所』だということです。

わたしは人付き合いが苦手で小・中は特に苦労していました。
いじめられたり、クラスで友達がいなくて孤立したり、自分を受け入れてもらえなかったり。

そのときに心の支えにしていたのが、創作の世界でした。自分が生み出す世界なら傷つかずに済みます。最強になっていじめっ子を撃退することもできます。復讐をしても、同じように痛めつけても創作の中なら許されます。それがうれしかった。こう書くと誤解を与えそうですが、わたしはいじめがしたかったわけでも、復讐したかったわけでもありません。
ただ自分を全て認めてくれる世界がひとつでも存在しているのがうれしかった。ここだけはわたしを肯定してくれる。受け入れてくれる。それがうれしかったんです。

創作の世界はわたしにとって『居場所』でした。

だから高校の演劇部で初めて書いた脚本を上演したとき、すごく緊張しました。
初めて人に見せるものとして作品を書いたというのも、初めて演技をしたというのもそうなのですが。

創作は自分を全てさらけ出している場所だから。自分だけだった世界。自分の価値観で回る世界。その自分の全てを見られた後、それを見た相手がどう思うのか。それが不安でした。
でも、それを「面白い」「よかった」と言ってくれる人がいて、この成功体験を繰り返すうちに、不安は薄まっていきました。自分の世界を、居場所を、みんなに教えても大丈夫なんだって、少しずつ思えるようになりました。

頭の中、文字でしか存在していなかった自分の居場所が、人の力を借りて具現化されて、そこに自分も立っている。そのときの感動は今でも鮮明に思い出します。今思い出しても泣きそうなくらいうれしい出来事でした。


「君が何を作らなくてもこんなに面白いものがあるよ。」

それでもなぜつくるか、その答えはそこが自分の居場所だから。
つくるのが楽しいからつくるというのが分かりやすいかもしれませんね。

もちろん、皆さんに見てもらう時には、楽しんでもらいたい、あわよくば笑ってほしいという気持ちでつくります。自分本位すぎるのはよくないと自覚しています。

でもそれと同時に自分の世界に入ってほしい、面白いと思うものを共有したいというある種の承認欲求みたいなものがやっぱりあって、それが今はすごく楽しいんだと感じています。

これがわたしの創作する理由なのかなと思っています。


ここまで読んで、あなたはどう思ったでしょうか?
共感できる人、できない人いると思います。
受け入れろとは言いません。聞いてくれただけでもすごくうれしいです。

わたしは、わたしと同じように、現実逃避として頭の中に自分を全て許してくれる世界を作っている人は意外といるんじゃないかと思っているんです。

例えば、ちょっとムカつくやつがいて、現実では何事もなく接しているけど、頭の中では文句を言ってみたり。
例えば、好きな子がいて、現実では告白する勇気がないけど、妄想の中では告白してOKをもらってデートしていたり。

創作として形にしたことがないだけで、誰でもそういう経験が一度はあるのではないでしょうか?

わたしは、そういう人たちが現実逃避できるような、没入できるような、逃げ込んで安息を得るような、そんな作品がつくりたいです。

わたしは演劇やドラマを見るとき、その世界に自分も入っているかのような感覚で見てしまいます。役の誰かに憑依したように感情移入して見てしまいます。

自分が創作する上でもそうですが、作品世界はすごく自由だと思っています。その世界に浸っている間は、現実とは切り離されている状態になれる。だからこそ、辛い現実、悲しい現実、悩みだらけの現実から束の間の休息=『娯楽』として機能しているんだと思います。

わたしの作品もいつかあなたの避難場所になれたら。ひとりで創作世界に引きこもっていた子供の頃のわたしも救われるような気がしています。


最後にひとつ。

最初に引用した楽曲をぜひ全部聴いてみてほしいです。

歌詞を噛み締めるほど、ほんとはわたしみたいに、たとえ世の中にどんなに面白いものが沢山あっても何かをつくることをやめられない人の歌に聞こえてくるんです。

以下に引用しておきますね。

冴えない暮らし 明日ゴミ出し
忘れないように覚えていてほしい
響く音は夏の雷鳴
心細さがふっと胸に刺さる

楽しいことはいつも後出し
それでも僕をもっと見ていてほしい
死んだ蝉はなぜか邪魔だし
子供の声はずっと遠くへ行くし
何だか泣きたくてどうでもいい映画を見たら
「別に要らなかったな」なんて

悲しいことは繰り返しの日
贅沢なんかも言えずにいるし
「それで別に悪くはないし」
「みんながみんな我慢しているし」

ほらこんなに面白いことがあるよ
そう君が何を作らなくてもさ
「なあ夢を追うことは素晴らしいね」
「まあ俺はわざわざやらないけど」
寂しいことは嘘をつく意味
悪気なんかきっとありゃしないのに

悲しいことは繰り返しの日
いつまでもここで泣くのだろうか
寂しいときは目を閉じるとき
嫌なことばかり思い出すのだろう
苦しいことは決別の日々
痛みだけはずっと慣れないままで
冴えない暮らし 明日ゴミ出し
僕のことをずっと覚えていてほしい

ネクライトーキー『夏の雷鳴』

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