面影

 森の匂いがした。深い冬の森の匂い。日本のそれとは違っていて、もっと濃く、鼻の奥を濡らすように香る深い緑の静かな匂い。私は独りで辺りを見渡して、それから見知らぬ森に迷う自分を漸く見つける。一時間もすれば日も暮れるだろう。私は怯えにつかまらないように大丈夫と繰り返しながら、倒れた木を何度も確かめて腰かけ、そしてもう一度辺りを見渡した。ごオッと音がする。常緑針葉樹の森はおとぎ話の中の景色に似ていて奥深くへと誘い込んでいくようでありながら、現実を強く拒否する繊細さがあった。
 また、ごオッと音がする。風が木の葉につかまり藻掻くあの音がする。私はまるでそれが習慣であって、最早そうするのが当たり前であるかのように、持ってきたかばんを探って水筒を取り出した。温かい茶の匂いが、今度は私を町へと連れ出す。あの小さなかわいい煙をもくもくと出していた、あの小さな教会みたいな家へ、私を連れ出す。
 風が再びごオッと唸って、そして夜になった。私は動かなくなった私を見つめて、静かに呼吸を続けていた。そんな十一月の夜の始まりだった。

 才能のある後輩がいた。誰よりも努力をして、きっと誰よりも表現に心身をささげていた。表現に向き合い悩み、技術の不足を努力で補い、そして、この先の人生をどれだけ捧げても越えることのできない壁を、誰よりも早く見つけてしまった。才能故に、自身の才能が特別でないことに気が付いてしまった。才能を持ちながら天に愛されていないことを知ってしまった。彼女が経験した絶望は、青春を芸術へと昇華させることもなく収束させた。彼女は耐えた。耐えて、そして最後にプツンと、ボレロのクレッシェンドを忘れたように、味気なく、やはり美しく彼女は辞めた。
「三年半かかりましたよ、先輩」
 表現と向き合い、その限界に気付いてから、辞めるまでに三年半。その重さは私には分からない。共感なんてできないし、自分のそれと重ね合わせて分かった気になるなんて物語は、彼女に対して、彼女の決断に対して、相応しいはずがなかった。
「先輩は続けてくださいね」
 無茶を言う。お前が辞めるのに、なんで私が続けないとなんだよ。
「先輩は、きっといつか辞めるから。だから本当に辞めるその時まで、辞めちゃダメです」
 彼女はそう言って、あの茶目っ気のある目元で、初めて悲しそうに笑った。そして幸せそうに目を細めて、ため込んできた言葉を最後にもう一度確かめるように間を取ってから言った。
「先輩、ありがとうございました。今度会うときは、作品の前で」
 彼女が音楽に捧げた人生の時間は、十四年と五カ月と三週と五日。彼女が音楽を辞めたのは、私がまだ高校のときだった。
 彼女は今、どこで何をしているだろう。卒業してから九年が経った今もまだ、作品の前に彼女は現れない。

 高校の二年のとき、自分で死んだ友人がいた。前の日まで笑顔でいつもと同じように会話して、また明日って。本当に口に出したかどうかは思い出せないけれど、日常を疑う必要なんて当時の私たちにはなかった。冗談めかした言い方しかできなかったけれど、大好きだった。
 だから、生きていてほしかったなんて、間違っても言えない。私たちは芸術でしか生きられないクズだから、普通の幸せは手に入らない。死んだのは苦しかったからでも悩んだ末に諦めたからでもない。単にそれが美しかったから。
 芸術は言葉だ。言いたいことがあるなら、私たちは描けばいい。彼は命を絵具にして重ね、楽器にして掻き鳴らし、紙にして黒く染め、言葉にして遺したんだ。それはきっと美しい。
 でも。思う。毎日を続けていくことを中途半端に辞めた彼の中にも、可能性があったんじゃないか。普通に生きて、普通に愛をして、普通に死を待つ人生が、あったんじゃないかと。私は彼がそれを望んでいなかったことを知っている。きっと彼と話した人ならみんな分かってる。
 だから私は何も言わない。彼の死を、彼の居ないこれからの日々を、単に悲しむべきではない。彼の死も、いつか私に消費されて、この感情も、いつか私に忘れられて、彼の声も、形も、色も、匂いも、話したことも、すべてがいつか私に思い出にされて、本当の意味で彼がいなくなる日が訪れる。そのあとで何を想うだろうか。何にしろ、それはきっと本物よりも美しい。
「待つ人は美しい」
 昔よく言っていた。そうだね、待つ人は美しい。
 だから、私もいつまでも、君のいたあの頃を想うよ。君は私に思い出にされて、画だか音だか文章だかにされるまで、ずっと私の中にあの頃のままいるんだ。狡いね、君は。君の方でも待っているだろうか。
 少しずつ、毎日、少しずつ、君の形が朧になっている。そのことを怖がらないでいいと、君は私に教えてくれる。

 人生を変える出会いは、都合存在する。一つ一つの出会いは、たとえ記憶に残らないほど意識されない僅かなものであっても、私たちの血肉となり、身体的な形を有し、やがて確かに顕れるのだ。だが別れは違う。私たちは失っていく。もともと持っていた物でもなければ、自分の所有ですらない物を。日々何かを失っていき、その空いた場所を埋めるために出会う。都合、出会う。
 ずっと何かに怒っていた。言葉にならない何かへと、大きさすら捉えられない不確かで、それでいて生まれた時から心のうちに抱えてきた怒り。それがかけた後で私はきっとまた知らないうちに出会う。

 森の中を歩いていた。二十九の冬は寂しさすら感じさせずに訪れた。死んだ心は私を許してはくれない。空に映る私の姿がぼんやりと揺らいで、また一つ星をつくり誰かに勝手に結ばれる。寒さの中で、ほらまた一つ。私は結ばれもせず、名前もつけられず、見つめられもせず、それでもただ届く光になる。星になる。あなたたちのいない世界を、照らしていく。

面影
2024.12.26
雪屋双喜

寒さが暖かさを持つ冬に。

いいなと思ったら応援しよう!