これからの話

 どうも、雪屋双喜です。

 お休みする、と宣言しておいて「なんだ毎週のようにいるじゃないか」と思われた方もいたかもしれません。(申し訳はあるのですが)ごめんなさい。

 受験期というのは、贅沢なものです。合格の為ただペンを走らせる時間は生産的ではありませんし、芸術的でもないでしょう。実際つまらなかったです。けれど、いやだからこそ、あれは贅沢です。幸福とは全く異なる贅沢です。自分のことだけを考える。自分のことだけを伝えようと書き続ける。住む場所だとか、食べる物だとか、消費するすべての物が自分の為だけに使われる。

 そしてそれに気が付かない。

 才能はきっといろいろな形をしています。頭がいいこと、運動ができること、努力できること、心が健全であること、集中できること、夢中になって続けられること、自分のことだけを考えられること、塾に行けること、有名な先生に教われること、辞書が家にあること、壊れた文房具を捨てられること、東京に実家があること、東京で時間があること、周囲の人に恵まれること。

 彼らからすれば、私は、何だろうか。そう思うことが増えたのは、きっと私が「高校生」から「受験生」になっていたからだと思います。それは成長でも後退でもなくて、新たな地平だとか色褪せた青春だとか、そんな大げさな変化ではないけれど、自我を持ち始める感覚ときっと近い「何か」が底にありました。

 ありました、と言うのは正確ではない。私はもう逃げられない。言葉が人を表し、かつ造るように、過去は私を私たらしめる。きっと今から語るこれからは、捨てきれない過去と想い出さないだけの思い出とに、どうしようもなく影響されているでしょう。


 これからの話をしましょう。利害なしで。

 特に変えるつもりはありません。ああしたい、こうしたい、あれが書きたい、これが描きたい。沢山ありますが、それは算用に含んでも仕方がないのだと、のんびりと誠実に向き合っていくことにしました。

 やはりこれは、一生涯を捧げるに値するものであり、読者の一瞥に対し報いるものでなくてはいけない。だからこそ、これからは、描き出す深さを磨くとともに、幅を広げていきたいです。

 詩、小説、物語。言葉で記すことはきっと個の人生に適している。芸術を騙る読み物を憎むよりも、流行に呑まれて千鳥な業界よりも、向き合うべきは書きたいものであるべきだ。

 シンプルです。私の中で書くことが一番真ん中に戻ってきた。そのことが今は心地よい重みを、私に与えてくれている。


 応援してくださっている方、読んでくださった方、これから興味を持ってくださる方、張り合ってくださる方、ありがとうございます。

 どうかこれからに、ご期待ください。私は今ここにいます。


 2024.2.27 雪屋双喜

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