私はきっと、人間とか人類とかを尊敬できない。遠くで殺し合いが起きてても、近くで飛び降りて自死してても、焼肉食べて笑顔になって、酒呑んで喜んでる、あんなのを、きっと好きにはなれないのだろう。自分もその中の個体で、気がついて泣いて腹が減ってまた食べる。繰り返して、繰り返して、繰り返して、何年生きたのか分からなくなった。その間に人を愛して、愛されて、気紛れに愛を誓ううちに、自分









 自分とはつまり空っぽだ。何年か前にそう書き殴った私は、そう信じていなかった。九月になった。夏が終わって飽きが来る。今の私はどうだろう、空っぽな自分を、赦せるだろうか。赦しているのだろうか。

 私はきっと、人を好きにならない。人という物を好きにならない。誰かを愛するのは、好きになるのは、人間を投げ出して、関係を脱ぎ捨てて、頼りない体をさらけ出した裸のそれを、自分と比べて羨んだからだろうか。

 私は人を信頼している。信頼しているのだから、あなたも私を信頼してね。私を攻撃しないでね。そう思って生きている。矮小な、ちっぽけな、自己を卑下するよりも残酷なやり方で殺したい。

 殺さずに愛したい。同時にそう思う。本当に同時に、語尾が混ざるほどに。

 私とはつまり、などと言わずに、私とはいったい、とも問わずに。

 私を無私の自己として、ただひたすらに消費して。

 裸の声を見出したい。

 そんなものなければ良いと、心の底でニヒリズムに浸る曖昧で臆病な私をやはり殺したい。

 殺さずに愛したい。

 他人などどうでも良い。そう、今ならそう言ってしまえる。

 九月のこんな夕暮れの赤を見て、美しいとも、汚いとも、呟くことなく、怒りに任せて殴っている。そんな私を。

 私は私を好きなまま。

 私は私を殺したい。


 その一瞬を描きたい。



雪屋双喜


2024.9.1

本当のことは、言葉にならない。

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