物書きの立つ所
書くものは、それを経験した後も、前と同じようにあるだけで。頭が良くなることも、全く別の生き方が拓けることも、雨に打たれ震える猫が尻尾を振って歩き出すことも、籠の中の小鳥が分かるように話し始めることも、決して無い。書くものは、ただ、書かれたもので。
余裕の産物として、全く余裕の産物である、この書くものを、まさしく余裕の内から書いているのが物書きでしょう。
物書きは、時に絵を、時に歌を、時に器を、描きますがその先に見ているものは同じなのです。それは美とも、芸術とも、光とも、思い出とも、春とも、太陽とも、夢や現実とも、意識とも、あなたとも言える、何かなのです。その何かを何かとして今確かに知るために、物書きは描くのです。それは全くもって、余裕から生じるのです。
書くものは、腹を満たすことも、戦争を終わらせることも、花を咲かせることも、遠くの誰かの子供を愛することも、出来ない。それが出来るのは、ひとである私。
今、書くものに、何が求められるのか。その時代に応答はすれど、迎合してはいけない。時代が声高く叫び始めた正しさが、今も昔も別の形であったことを忘れず、そのことを何かとは別の方向に描いたとしたら、意味があるかもしれない。
意味がないものを描くからこそ、それは世界の内外に確かにある何かに届く。私と物書きとは、その点で不一致であって、その点でのみ、背中を合わせている。
物書きとして、立つ所は、今その余裕の中で、世界を見渡す視点。今その余裕の中で、世界を語る空気の震え。今その余裕の中で、捉えた光を見つめ返す。
2025.2.4