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”ししゃも”の運命
「ししゃもはししゃもではない」と初めて聞いたときは驚いた。ししゃもとしてパッキングされて販売されているのは本物のししゃもではなく、実は「カペリン」というより安価な魚なのだ。
でも素人からすれば、カペリンもししゃもも「ししゃも」だ。時がたてば、食卓に上がるのがカペリンだろうと何ら気にしなくなってしまう。いまやカペリンなんて名前は忘れ、何事もなかったようにししゃもと呼び続けている。
こんな日本の現状をみて、カペリンはどう思うのか。
カペリンは「ししゃも」という自分より知名度の高い名を貼られ、ししゃもとして愛され、そしてししゃもとして死んでいく。「ししゃもはししゃもじゃない」と分かってる人間がいても、結局ししゃもとして人間に消化されていく。
人間で言えば、芸術家なのにアイドルという名前がつけられ、アイドルと認識される。芸術家だと訴えても、「まあ、アイドルでしょ?」と周りに言われ、アイドルとして生き、そのまま死んでいく。芸術家は、なかったことになり消えていくようなものだろうか。
きっとカペリンは、かなりしんどいはずだ。人間に捕まることだけでもつらいのに、自分とは違うほかの名前をつけられ、それだと決めつけられたまま死んでいくのだから。
そんなかわいそうなカペリンの為にできることは、ししゃもを食べるときに「これはカペリンだ」と思って咀嚼することしかない。とはいえししゃも(カペリン)を食べる頻度は低いから、きっとみんなカペリンのことなんて忘れてしまう。きっと私も、何も思わず「ししゃもうめー☆」と話していることだろう。
これがきっと、カペリンの運命(さだめ)なのだろう。。
ちなみになんでシシャモの記事を書いたかというと、「シシャモについて何か書け」と言われたら何を書くかという中川淳一郎さんの記事をよみ、暇を持て余していた私は挑戦してみることにしたからだ。
とりあえず、ほとんど思い入れのないししゃもの文をかけたことは、自分のことを褒めたいと思う。