子どもを信じるためには、自分自身が「根拠のない自信」を持たないとダメだった
最近「根拠のない自信」を持てるようになったと感じます。
それに伴って子供を信じるということもできるようになってきたと思っています。
子どもを信じるとはどういう事か
他の子と比べないで、その子はそのままで良いと認める。さらに、その子の将来が幸せになると信じることだと思っています。
4年半前に息子が生まれてから、私はこのように息子を見たいと思ってきたのですが、実際はできていませんでした。
0歳の頃は体重が成長曲線の上の方に沿って進んでいくかという事に一喜一憂し、保育園に入ったら運動会のダンスで棒立ちで踊らない息子を大丈夫かと心配したり、常に他の子と比べてしまっていました。
今思えば、私は自分に対して「集団の中で秀でているかどうか」という価値観が強かったので、息子に対してもその価値観で見てしまっていたんだなと思います。
息子に対して、その存在を他と比較することなく受け入れるというのは、自分に対しても他と比較することなく、自分は自分のままでいいんだと心の底から思えなければできないことです。
言い換えれば、自分に対して「根拠のない自信」を持っていなければ、子どもに対しても根拠なく受け入れて信じるなんて事は到底できないのです。(と、今だからこんなに断言できるんですけど)
「こうあるべき」に囚われていたら根拠のない自信は持てない
私が所属しているGCストーリーには、GCガイドという社員の心得を記したものがあるのですが、この一項に「根拠のない自信を持て」という文があります。
根拠のない自信とは、仕事ができるとか、自分は人よりも優秀であるといった根拠がなくとも、自分が自分でいるだけで価値がある、という自信です。
私は中途で入社した5年前からそれがなかなか持てずにいました。(当たり前です。そんなに簡単に持てたらわざわざ書かれてません。)
「この歳で仕事ができないなんて恥ずかしい」というのは、同い年の同僚と自分を比べていたから思っていたことだし、
それは「こうあるべき」というある種の思い込みに囚われていたから思っていたことでした。
でもそれも、この育休に入る直前くらい(2018年10月)には、「あなたはいてくれるだけで価値がある」と複数の同僚が伝え続けてくれたことで、そうかなぁと少し思えてきたというのはあります。(感謝)
自分を信じられていなかった1年半前
とはいえ、まだまだ根拠のない自信は持てていなかった1年半前、私は息子のことを信じられていないと痛感する出来事がありました。
これほど自分は息子を他の子と比べないで、枠にはめないで考えたいと思っているのに、「枠はある。でも子供はそれに嵌らない強さがある」と人から言われて、その強さを信じてあげられていない自分に気づき、愕然として泣きながら帰った思い出があります。
私は枠にはめたら折れてしまうんじゃないかと思って心配で心配でたまらなかったのですが、そうじゃなくて枠にはめられても折れない、ってなんで信じてあげられないの、と言われているようで、それができていない自分がとても悔しかったです。
「私は私である」という自信に至るまで
ですが最近は、本当にここ3ヶ月くらいの変化なのですが、「根拠のない自信」が持ててきたと思っています。
「私は私であって、他の何者である必要もない」という、ただ私は私というそれだけで良いんだという思いです。
家事育児が得意なわけでも、仕事ができるわけでもないけど、用事がないとパジャマで1日過ごしちゃうくらい全くキラキラしてなくて、特に人に誇れる取り柄もないけど、でも良い、という感覚です。
なんでこうなったかというのは、自分で思い当たるのは以下のことですが、これ以外にも思い当たっていない色んなことが積み重なっていると思います。
自分の考えを肯定してもらえる経験
2人目の育休中にnoteでいくつか記事を書きました。私としては赤裸々に自分の思っていることを書いたのですが、これは「自分の言葉を持つ」という(2019年の私のテーマ)のを念頭に置いていました。
読んでくれた人から反応をもらって嬉しかったのと、自分が思っていることをそのまま言っても良いんだなと思って自信になりました。
子どもの成長
1つ目は4歳になった息子がめちゃくちゃ良い子に成長しているという事です。(はい親バカ)
え、「何言ってんだよめちゃくちゃ根拠あるじゃねえかよ」という突っ込みが聞こえてきそうですが、これは他の子と比べて良い子というわけではなくて、私が良い子と思うという話です。
妹に優しいとか、私とした約束を守ってくれるとか、親からして都合の良い子という要素もあるのですが、息子がただただ可愛いと思うことが増えました。
たぶん、4歳になったらもうお兄ちゃんだから◯◯してね、というのを言い続けて本人も納得して、お世話がだいぶ楽になったから、私の負担が減って、それが可愛いと思える余裕を生んだのだと思います。
2つ目は娘の存在です。
2人目の子はただただ可愛いです。1人目の息子のときは初めての子なのでよくわからず、私自身かなり神経質になって疲弊していましたが、2人目だとある程度わかっているので精神的にかなり余裕を持っていられました。
娘のことは発育に関しても(私が)気にせず、無条件で可愛い、毎日天使だ天使だと頬擦りしているので、無意識に「こんなに可愛い子を産んだ自分も素晴らしい」という風に思っていると思います。
幸せの形は人それぞれだと知る
育休中にTwitterを始めたのですが、Twitterでは普段自分と接しない人とも交流が持てるのが醍醐味だと思います。
そんな人達の思考を覗いてみて、勉強ができなくても、社会的に成功してなくても、幸せにはなれるんだなぁと思いました。(失礼)
当たり前のことですが、自分が幸せかどうかは自分で決められるんだなと改めて思ったことで、社会的な(第三者から羨ましがられるような)「こうあるべき」に囚われる必要はないなと思いました。
夫の愛
子どもを産むと女性は本能的に子育てに必死になるので、出産以降、私の中で夫の存在が薄くなっていました。
子どもと夫どっちが大切か聞かれたら、すかさず子ども!みたいな。子供達がいれば生きていける、みたいな。
ですが最近、私が子どもを産んでからも夫は変わらずずっと愛してくれていて、だからこそ今まで育児が大変なときも乗り越えてこられたんだなというのに改めて気づきました。愛が深い。
夫がずっと愛してくれているのは、別に私が何ができるからとか何をしてくれるからと理由がある訳ではなくて、そのままの私を愛してくれてるんだなというのがわかって、じゃあ私もう私というだけで良いんだ、と思いました。
出会ってから9年間も、私はこうならないと!と焦っていたけど、夫はずっと、そのままでいいよーと言っていて、気づいていなかった私バカじゃん…自分自身を受け入れていなかったのは私自身でした。
「こうあるべき」から自由になる
このような事と、それ以外の色んな事があり、「こうあるべき」の呪縛から離れられたと思います。
夫にこの話をしたら、私は学校教育でそこそこ優秀だったから、このあるべきの呪いが強かったんだろうと言われました。(夫自身は高校受験も大学受験も失敗してるからこの呪縛は薄いよ、ハハハと言っていました)
最近は根拠のない自信があって、自分は(大した人間ではないけど)これでいいと思えるおかげで、息子のこともこの子はこれでいいんだなと思えます。
すごく気が楽です。たぶん「子供をこう育てなきゃ」と思っているうちは、味わえない感覚だと思います。
今でも、私の子育ての目標は、子供達が精神的にも経済的にも自立すること(そのサポートをすること)なのですが、「こうさせなきゃ」と焦る思いはなくて、「なるでしょう。」という感じに思っています。
でもたぶん、今は保育園だから勉強で優劣がつけられず、心穏やかでいられるのかもしれません。
「あるべき」の呪いはたぶんずっとあるので、絶えず反対方向に引っ張る良い呪いを自分で自分にかけていかないといけないと思います。(それが根拠のない自信なのか…)
発達的に心配と言われたことと、子供を信じること
子どもを信じるとは、発達的な問題を見て見ぬふりをするという意味ではなく、もしも本当に発達障害があるのならばそれを認めてその子が生きやすくなるようにサポートすることだと思っています。
年末に保育園の先生から、息子の拘りが他の子と比べて強いので、来年もこのままの調子だったら発達的に心配と言われました。
発達障害について無知だったので、その後、発達障害の説明をしている本を読んだら、息子はもちろん、私も夫も幼少期の頃の様子がバリバリ発達障害の子の特性に当てはまっていて、笑いました。(私は特にASD。人に交わらず一人で遊んでるとか正に小1のときの私)
親がそうなら子も遺伝的にそうなるのはわかります。
特性があっても生活する上で障害にならないなら、それは障害ではないわけですが、息子がもしそうなら社会に出て生きづらくならないように、色んなサポートをしたいし受けたいと思います。
いつも以上に長くなってしまいましたが、ここまで読んで頂きありがとうございます。