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コミュニケーション不可能な世界でひとりは嫌だ
気分が晴れ晴れとしないので、なにか変化が必要と感じ、会社の帰りに『ミッドサマー』を観に行った。
予告を見れば、自分が苦手な映画というのは経験的にだいたい分かる。だからその映画がいくら話題になっても観ようとは思わない。が、たまに「もしかしたら……」と直感的に惹きつけられるものがあって、『ミッドサマー』はそれだった。後悔するのを覚悟して観てみたら、ぐちゃぐちゃの胸の中がすっと整えられたようで、この映画こそいまの自分に必要だったんじゃないか。帰り道、暗い高揚感に浮かれた。
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「自分にも似た経験があるから、あなたの気持ちが分かる」と誰かから言われても、けして人と共有できるとは思えない悲しみが心の奥にある。
いま自分が悲境に陥っていることを知っていてくれる人がいる。その大切な人は話を聞いてくれ、自分に付き合ってくれもするが、なぜか “拠りどころ” として感じることができない。それは、その人が涙を見せてくれたことがないから。泣いてばかりいるのは自分で、その人は一度も心の奥からこぼれる感情を見せてくれたことがないから。
ミッドサマー。夏至。友人に誘われ、スウェーデンの奥地に主人公たちは向かう。九十年に一度の祝祭がひらかれているその場所で、白衣に身を包んだ人々が草原の上で笑い、音楽を奏で、踊っている。主人公たちは馴染みのない文化に戸惑いながらもついていく。そして、見せつけられる。
最初は残虐な奇習に反吐が出るほどの怒りがこみあげてきた。ここは、理解不能な論理がまかりとおっている世界だ。だからこそ主人公は絶えず不安を掻き立てられる。友人たちは、その理解不能の世界に自分を置き去りにするのではないか。いつも腫れ物に触るように病気の自分に接する彼らだから。そもそもこの旅行に誘ってきたのも、ここに自分を捨てるためではないのか?
疑心暗鬼だけがつのる物語に転換が訪れるのは、やはり主人公がメイクイーンに選ばれてからだろう。食事のためテーブルを囲った全員が、自分の合図を待っている。フォークを手に取ると、皆が一斉に従う。自分の動きに合わせて流れが生まれるその心地よさ。主人公にはじめて共同体への理解が芽生える。と同時に、共同体はもう主人公を家族として受け入れている。
思えば、本当に悲しくて苦しかったとき、外の世界ではいつもひとりだった。つらいことが起きて、「ひとりにしてほしい」と頼んだら、みんな自分をそっとしておいてくれた。だけど、それは「ひとりでは抱えきれない悲しみ」にまで彼らは付き合ってくれなかった、ということでもある。本当は最後まで寄り添っていて欲しかったのに。悲しみのあまり涙と鼻水に顔が濡れて身体が自然に震えてくる、そんな情けない姿を晒してでも発露しなければいまにも自分は壊れそうだった。そんな悲しみにまで彼らは一緒に向き合ってくれなかった。だから、主人公はトイレの個室に籠もってひとりで深い悲しみを泣くしかなかった。
物語の後半、ある光景を目撃して泣き崩れた主人公はひとりだったか? 一緒に泣き、嗚咽し、呼吸までをも合わせてくれる「本当の家族」がそばにいたのではなかったか?
ラストシーンは燃えさかる炎が美しくて心震えた。
生贄は「痛みを感じなくなる」というその言葉を信じても、肉体を焼き焦がす炎に絶叫を抑えることができない。燃え上がる建物の外では白衣の人々がもだえ、わめく。まるで生贄の身体を焼く炎に自分たちも包み込まれているかのように。なぜなら、いま耐え忍んでいるその人の苦痛は自分の苦痛でもあるから。
凄惨なグロ描写に目を背けたくなるけれど、砕かれた頭や脚を不快に感じるのはそれが自分の身に起きた場合に向けて想像が働くからでもある。その想像力は、肉体も精神も共有できないがために本来は分かり合えないはずの他者の痛みを知るための唯一の手がかりだ。鑑賞後、胸いっぱいに広がった不快感を辿っていけば、あのような異様な風習を築くことでしかこの世界に居場所を作れなかった彼らの悲しみが浮かび上がってくる。