![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/39557250/rectangle_large_type_2_920b058677dc1e320a77ef1eefb056e8.jpg?width=1200)
何万回もの「No」を
たとえそれが自分の頭の中だけのことであっても、「ああ、こことここが繋がるのか」と理解した瞬間には、一見くっつくとは思えなかったピース同士がぴたりとはまったときのような快感がある。
先日、森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』を読み終えた。読み進めていくうちに本の内容が、学生時代に感銘を受けた漫画の台詞と心から気に入っている歌詞に奇妙な繋がり方を見せたのでその思考の流れを記す。
***
ここのところ、夜中に「なんかもういいな」という気分が唐突に来る。しかしそれはその時になって急に湧きあがった気分ではないのだ。日中は仕事の忙しさによって忘れているけども、この「なんかもういいな」という気分は心の底に絶えずある。それが静まった夜に、床の上に横たわっていると浮かび上がってくるというわけだ。
この気分を意識しだすようになったのは、今年7月末に心が折れ、10月頭の出来事が決定打となり、それからだったように思う。いや、本当は高校の頃から気付いていた。なにが「もういい」のか? いま死んだとしても、60年後に息絶えたとしても、この人生に抱く感想はきっと同じだ。変わることはない。この世は生きるに値しない。だから、もういい。これが 26年生きた僕の(そして今後生き続けたとしても抱く)最終的な感想だ。
ファウストはメフィストと賭けをする。
ファウスト わしが瞬間に向かって、
とどまれ、おまえは実に美しい!
と言ったら、
きみはわしを縛りあげてよい。
その時はわしは喜んで滅びよう!
「とどまれ、おまえは実に美しい!」とは、生きる意味を見失っていたファウストが、「いつの日か生きることを肯定できるような最高にすばらしい瞬間を体験できたとしたらどんなにかいいだろう」と思って発した言葉である。すなわちこれは、生きる意味を見失っていた時点における、ファウストの生の肯定への希求を表現した言葉である。
— 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房 p. 22)
ゲーテの『ファウスト』で、哲学、法学、医学、神学を学んでも生きる意味を見出だせなかったファウスト博士は、悪魔メフィストの提案に乗って契約を結ぶ。メフィストが提供する人生の享楽を味わい、もし「とどまれ、おまえは実に美しい!」と宣言したくなるような瞬間が彼のもとに訪れたなら、メフィストに己の魂を捧げること。思えば、僕もそのような瞬間を求めて生きていたのだった。そして、自分はその瞬間をすでに捕らえ損ねた、と思う。このことについては以前、「とぼとぼと戻る道」にすでに書いた。
新井英樹の『宮本から君へ』を読んだのは中学の頃だったように思う。その(中略)物語の終盤に「人の一生には、これまでの日々はこの瞬間のためにあったと感じさせる出来事があり、人はその一瞬のために生きている」という台詞があった。それを読んでから僕は、それではその瞬間は自分の人生にいつ訪れるのだろう、と待ちわびるようにして生きてきた。
そしていま、(中略)考えるのは、もしかすると、その一瞬はこれまでの生の時間のうちにとうに起きており、自分はそれと気付かずに見過ごしてしまったのではないか、ということだ。だからといって思い当たる出来事が、振り返ったところで記憶にあるわけではないのだけれど……。
僕はこの生において「とどまれ、おまえは実に美しい!」と言うことはない。これは諦めではなく、確信だ。今日の延長線上に明日がある。もっと言えば、今日の延長線上に六十年後の生活がある。喜びも驚きも用意されない今日を繰り返していった先に、とどまってほしいと願うほどの瞬間は訪れない。「そんなことはない」と人は言うだろうが、いま僕が目にしている現実が、誰からの否定も受け付けないほどの絶対的な根拠として在る。肯定したくなる一瞬は訪れない、絶対に。
しかし、自分は何故その一瞬を求めて生きてきたのか? ここで森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』の案内により、ゲーテの『ファウスト』と新井英樹の『宮本から君へ』が、ニーチェの「永劫回帰」との繋がりを見せる。
私の生は孤立していない。それはすべてのものごとと、空間的にも、時間的にもつながりあっている。まず空間的に見てみれば、もし私がいまこの瞬間に対して「イエス」と言うことができるならば、それは私の存在に対してのみならず、私以外のすべての存在に対してもまた「イエス」と言ったことになる。次に時間的に見てみれば、もし私がいまこの瞬間、幸福に打ち震えたならば、この瞬間へと流れ込んでそれを準備したすべての過去の出来事、そしてこの瞬間から引き続いて起きるであろうすべての未来の出来事に対して、「イエス」と言ったことになる。このようにして、私がいまこの瞬間に対して「イエス」と言うことによって、過去・現在・未来にわたるすべてのものごとが全体として肯定され、救済されることになるというのである。
— 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房 p. 223-224)
『ファウスト』における宣言も、『宮本から君へ』の期待も、この「イエス」に集約される。僕らは生涯をかけて「イエス」と言える瞬間を待っていて、たとえそれまでの間ずっと喜びがなく苦しみが絶えなくても、現実を「イエス」と認められたその刹那、なにもかもが肯定される。
もし私がたったひとつでも快楽を肯定したとしたら、それはすべての苦痛を肯定したことになる。なぜなら、すべてのものは鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているからである。(中略)世界から取り出された快楽には、かならずその快楽を準備したところの苦痛が地下茎のようにつながっていて、快楽を引き上げればそこにつながる苦痛までをも一緒に引き上げてしまうからである。
— 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房 p. 225)
そしてニーチェは言う。もし私が素晴らしい瞬間を経験することができて、「ああこの瞬間が何度でも戻ってくればいいのに」と思ったとしたら、私はその瞬間につながっていてその瞬間を準備したすべての出来事に対して、それらが何度でも戻ってくればいいのにと願ったことになるのであり、それらすべての出来事を愛したことになるのだ、と。もちろん、それらの出来事のなかには、様々な苦痛もまた含まれているはずであるが、私はそれらの苦痛に対しても、何度でも戻ってくればいいと願ったことになるというのである。
— 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房 p. 226)
自分はこの「イエス」を言うことはない、と確信しているのだ。毎日のすべてが「ノー」である、とは言わない。客観的に判断すれば、「イエス」とも「ノー」とも区別のつかない日もあるだろう。しかし、僕はそんな日も、肯定できないというそれだけの理由で、恨みをこめて「ノー」を突きつける。だから僕が過ごすのはひたすらに「ノー」の毎日だ。すべてお断りなのだ、この世の何もかも。
Your mornings will be brighter
Break the line
Tear up rules
Make the most of a million times no
— Bauhaus - "Hope"(『Burning From The Inside』に収録)
このような自分をなにか言い表してくれているように感じる、Bauhaus の "Hope" 。意訳すれば、「君の朝は明るくなっていく/列を乱せ/ルールを破れ/そして 100万回のノーの機会を作れ」。ポスト・パンクのバンドであってもやはり七十年代のパンクからの影響がうかがえる、イギリス人の精神性を表わしたような否定の歌だ。
しかし、この意訳には僕の勘違いによる誤りがある。"Make the most of" は「…を最大限に活用する」と訳すべき熟語であるらしく、だから正しくは「100万回のノーを最大限に活かせ」なのだ。そう分かってみると、なぜこの暴力的な歌詞を持つ曲が "Hope" と名付けられているのか、という疑問が解けるような気がする。
本当に「イエス」と言える瞬間が来るまで、「100万回のノーを最大限に活かせ」。
そのように発想を転換してみると、この曲が「永劫回帰」について歌っているように思えてならない。
実は、私の人生を含みこんだこの宇宙全体が、時の流れの果てに、ぐるっと回って、いまとまったく同じ状態へと戻ってくるのだとニーチェは考えようとしていた。宇宙全体は、いわば始点と終点がつながった円環のような時間を巡っているのであり、いまここで起きていることは、まったく同じ内容で、これから何度も繰り返し起き続けるというのである。
— 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩書房 p. 220)
時間が無限である限り、この世界は続く。すぐそこまで来ているかもしれない近い未来に僕たちの子孫が絶滅し、気が遠くなるくらい先の未来でまた人が生まれ、文明を築き、発展し、飽和してまた息絶えても、無限の時間が何度でも人類の再起を許す。何万、何億回と繰り返されるうちに、この世界を構成できるパターンは出尽くして、「今」とまったく同じ一瞬はふたたび未来に訪れる。つまり、現実に敗れてため息をついている僕は未来にも存在している。そして、その同存在の僕は過去にもいた。しかも何人も。
「今」とまったく同じ一瞬が過去にも未来にもあるからこそ、「イエス」と言った刹那に肯定されるのは「今この瞬間」だけではなく、「今この瞬間」を用意したすべてを肯定することになるのだとニーチェは言った。魂の打ち震える場面に出くわして思わず現実を肯定したとき、口からこぼした「イエス」は歓声を上げながら何万、何億という年月を瞬く間に走り抜け、いつの間にか未来から過去へと遡って深遠で巨大な円環をぐるりと描く。そして、いまここに生きる人のもとに返ってきて、高らかに胸を打つ。それからまた肯定の言葉は胸をすり抜けて、全歴史分の肯定を運んで再びその人の胸を打つ。際限なく打ち続ける。
僕はあくまで拒否する人だ。生を肯定する気分にはならない。だけど、その円環を、その永遠に繰り返される肯定を美しいと思う。そして、願うように、そうやって美しいと思うこと自体が「とどまれ、おまえは実に美しい!」の予感なのかもしれないとも思う。