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あらゆる場所に花束が

 車内に光が差し込んだ気がし、小説から顔をあげると、ビルの壁面が西日で茜色に照らされている。まぶしさではなく、その美しさに思わず目を細める。車窓に流れた一瞬の光景。電車の中を見回すと、周りは寝ているかスマホを見ているかで、どうやら今のを目撃したのは自分だけのようである。あんなに美しい光景をここにいるみんなは見過ごした、と思う。

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 昼、収束の気配がない新型コロナウィルスについて話しながら会社に戻っていると、課長がため息をつくように「桜は綺麗だなあ」と言った。地下鉄の出口近くに桜の木が一本植わっており、それを見上げての発言だった。その言葉を聞いて僕は、スマホの普及により人は景色を楽しむ心を失ったと言われて久しいけども、桜だけはいまだに日本人を惹きつける、と考えた。町中でも、桜の下で立ち止まってカメラを構えている人をときどき見かける。 先行きの見えない事態に経済だけでなく人々の気持ちも落ち込む今、変わりなく綺麗に咲き誇る桜は唯一の明るい話題だ。

 この前も、季節外れの雪が降った日のニュースで高齢者の男性が「桜と雪の組み合わせってめずらしいからそれが見たくて」とインタビューで語っていた。自粛の要請が出ているのに外出している人はなにが目的なのかという批判的な意味合いの強いインタビューで、あの男性も自粛すべきなのは当然分かっていたはずだが、それでもひと目見たかったということだろう。たしかに桜と雪というと、字面からも幽玄なイメージを誘われる。外出自粛が求められている中で、雪景色に咲いた桜を見に行くその行為が良いか悪いかは置いといて、その花鳥風月を大切にする気持ちは個人的には肯定したい。

 僕には、皆がとっくに知っていることにいまさら気が付いて、自分が大発見をしたかのように舞い上がってしまうところがあるのだけれど、先週、小学校にある桜は計画性をもって植えられていることに気が付いた。なぜだか僕はいままで、学校の敷地内に桜が生えているのはたまたまだと思っていたのだ。というか、桜がある理由について考えたこともなかった。だけど、どこの小学校にも桜があることを知ると、桜は運良く敷地内に生えたのではない、誰かが用意しなければそこに存在していなかった、と気が付いた。

 やっぱり入学式は、桜をバックにして立て看板の横で写真を撮らせてあげたい。学校整備課だろうか、桜の木を校庭に用意した担当者は当初そういう気持ちを持っていたはずだった。はっきり言えば桜は景観を良くすること以外には役立たない、つまり必要ではないものだ。だけど、そういうものをわざわざ用意した、ということこそが愛なんじゃないか、と桜を眺めながら僕は考えた。お金もかかるし、手間もかかるし、そもそもなくて困るものではない。だけど、過去のある時点で誰かが桜を用意してあげたいと考えた。未来の新入生のために。子供の成長の早さに驚き、胸を喜びでいっぱいにする保護者のために。だから、なくてもいい桜がそこにあるということがもう愛なのだと思った。想像をめぐらせば、この世界のあらゆる場所にそうした善意を見出すことができる。君が暗い道に入りこんでいくのは、桜を見上げることなく地に落ちて踏みにじられた花びらにばかり目を向けているからでもある。

 結局、後悔ばかりの学生時代だし、いま考えていることは実現しないし、本当に好きな人と結ばれることはないし、これが理想だという日々を過ごせないどころか、楽しいと感じる瞬間もほとんどない毎日で、こんなのむなしいだけだなって思っていたけど、なくてもいいのに今ここにある僕の生それ自体が大きな愛なのではないか、なんて、こじつけでもいい、そう考えつく。そしてそのように考えてみる。その考えが自分に似つかわしくないものだとしても。いまは実感として、暗闇にぽつんと浮かぶ鬼火のようなさみしい生にしか思えないのだとしても。


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