光あるうち光の中を歩め
信頼の置ける感性を持つ人がいる。
つまりは自分なりの感性を確立した人のことだが、そういう人が勧めてくれたものは、勧められてから何年か後になったとしても、必ず手に取るようにしている。たとえばいまメモに残っているのは、輪るピングドラム。古井由吉。スロウコア。
長いレビューを書いたとしても語り尽くせない良さを持った作品の感想は、「最高」の一言に想いを込める。この世はそんな「最高」としか表現できない作品にあふれていて、人生をかけてもそれらをひとつ残らず知ることはできないのだと考えるとつらい。だから、生きているうちにひとつでも多くの良い作品に触れられることを願う。手当たり次第では時間がいくらあっても足りないので、人が勧めてくれたものを積極的に手に取ることで良作に出会う可能性を高める。その人の感性を信じているから、良作に出会う可能性は必然と高くなるのだと、また信じている。
それに、人が僕に対してなにかを勧めてくれるその事実が嬉しかったりする。うまく伝えられない自己を、作品を通して教えようとしてくれているような、そんな気がして。勧めてくれた作品が、その人の核を示すものであったり、もっと言えばその人自身であったりする。あるいは、その人が抱いている僕という人間のイメージであったり。僕も、自分を説明するため、相手のイメージを伝えるため、良い作品はなるべく共有したい思いがある。次会ったときの「あれ、聴いたよ」「この前言ってたの読んだよ」という報告が本当に嬉しい。
そういう会話を、大学の頃はよくしていた。
直接に勧められたわけではないけれど、Twitterで先輩が昔つぶやいていた『げんしけん』をこの7月に読んでいて、その余韻でか、大学生活を振り返ることが近頃は多かった。
『げんしけん』は主人公・笹原の入学から卒業までを描いた漫画で、話は彼の所属しているオタク系サークルを中心に広げられる。趣味に没頭する登場人物たちがアニメや同人誌の話題で盛り上がっているシーンを読みながら大学時代を思い出す人は多いはず。僕も、ああ、大学ってこうだったなあ、と感慨深くなった。部室でだべっていた時間やあの空気感は、この先の人生にもう訪れることがないものだろう。
『げんしけん』に描かれる大学生活に共感する一方で、自分はもっと暗い生き方だったことも思い出していた。登場人物たちのハイテンションのやりとりが羨ましい。振り返ってみて、僕は斜に構えるあまり、思うように周りに打ち解けられていなかったかもしれない。「心を開いてくれない」と言われたこともあった。自分としては心を開いているつもりだったので、そう言われて戸惑った。その戸惑いが大学時代の僕の象徴だろう。僕なりのコミュニケーションは人並みに届いていなかった。
大学三年になってほとんどの人がゼミに入ったけど、僕は探しもしなかった。ゼミにこんな暗いやつがいたらみんなが可哀想だし、気を遣われるのも嫌だという発想で。興味のあるサークルもいくつか出てきたが、足を踏み入れることはなかった。二年の頃に人との出会いがしんどいと感じる出来事があってから、極力、人と関わるのをやめていた。でもいま社会に出て、好きでも嫌いでもなく正直どうでもいい人たちと毎日関わるようになって、こうして最終的には人と関わりながら生きるのであれば、大学時代、好きな人たちとの親交をもっと深め、好きになる可能性のあった人たちともっと出会っていればよかったと思っている。
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人は自分の好きなものについて語るときに、笑う。
『藤澤清造短篇集』と『田中英光傑作選』の2冊を課題図書としたこの講演で、どちらが好みだったか会場に問う場面がある。結果として『田中英光傑作選』に多く手があがったのだが、藤澤清造の没後弟子・西村賢太は藤澤清造派がいたことに「あ、(手を)あげてる人がいる……」と感銘を受けた様子。それで食い気味にどこが面白かったのかと聞き始める流れは見ていて微笑ましい。この動画は最初の十数分だけを見る予定だったのだけれど、面白くて結局最後まで見た。この前の参院選の時期に茂木健一郎が「優しさって、知性だからね。」と言っていたが、ユーモアも知性だ。
西村賢太が田中英光の影響を受けていることは一般的に知られていない。僕はそもそも田中英光を知らなくて、それでWikipediaを読んでいたら太宰治が田中英光に送った葉書の内容が載っていた。
「君の小説を読んで、泣いた男がある。曾てなきことである。君の薄暗い荒れた竹藪の中には、かぐや姫がゐる。君、その無精髭を剃り給へ。」
薄暗い荒れた竹藪の中にいるかぐや姫。太宰治はあまり好きになれなかった作家なのだけれど、この表現にグッと来る。田中英光の小説を読んで彼の中になにかを見出したとして、僕ならばこういう表現は絶対にしない。というかできない。まず「かぐや姫」という言葉を選ばない、なぜなら表面的な言葉選びをする僕には想像力が足りないから。太宰治に提示されて初めて、暗闇に光る竹の幽玄さに気が付く。
自分の暗い胸中をイメージするとき、僕は真っ黒の虚空を思い浮かべる。しかし、本当は太宰治の言うような鬱蒼とした竹藪の薄暗さが胸には広がっているのだろう。そこにかぐや姫の篭った光の竹がある。翁に取り残されたまま、暗闇にぼうっと光る竹。
暗い人は一面的に「暗い」と評価されてしまうけど、人は明暗の両方を持つもので、どちらか一方ということはありえない。それなのに「ああ、こいつ暗いな」と相手を捨て去るような評価をつける人は本当に多い。他者に対する評価が即断的になってしまうのは、真価を見極めるためには時間がかかるからで、かぐや姫の比喩を借りれば、この世は竹藪の前できびすを返す人がほとんどだということだろう。竹藪の奥にいるかぐや姫、そこにたどりつくための険しい道のりを越えて、僕たちの心にもある隠れた光を見つけ出してくれる人ははたしているか。人生の意味は、きっとその人の到来を待ち続けること。
僕ら、もう随分と待ちわびたけれど、ぴかぴかと光を明滅させ、たとえ応答がなくてもこちらに進みくる人影があると信じて薄暗い竹藪の奥深くから呼びかける。光をもっと強く、待ち人が見つけてくれるように、ここにいる、と輝度を高めて自分の在り処を示す。人の心を知り、気持ちを汲むということは、その人の暗さを知ることではなくて、暗さの奥にある明るさに気付いてあげること。それをいつ誰が教えてくれたか。