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情深い社長の自己紹介


はじめに

これから約7200文字の僕の自己紹介が始まります。
お時間がある時に見ていただければ嬉しいです。




高校時代


会社を作りたいと思ったのは、高校生の時に先輩の紹介で小さな商業施設の中のスーパーでアルバイトを始めたのが今思うと始まり。

その当時の大阪府の最低賃金786円でせっせとレジ打ちをしていた僕。
バイトが終わってバックヤードに戻る途中のエスカレーターでそのスーパーの求人のチラシを発見し、そこには

高校生786円〜
一般1,000円〜

と記載されていて、衝撃を受けました。

どうしてやってる仕事もお客さんを捌くスピード、クオリティーも同じなのに給料が違うのか納得できる理由が見つからず、年齢で給料が変わるという概念、時給や月給という成果に連動しない給料形態に違和感を感じました。

いつか僕がこの商業施設の社長になって変えてやるといつか経営者になりたいとぼんやりと考え始めました。
※ちなみにのちにその商業施設は潰れてしまいました。

とはいえ、友達と遊ぶお金や当時の彼女と遊ぶお金も欲しかったのでそのほかにも、大手チェーンの回転寿司でもバイトをしました。

そこでも、高校生と一般の時給の差があり、その次にコンビニの夜勤をしました。
給料の差がなく、夜勤だと当時でも1,000円の時給がもらえました。


当時17歳、22:00~6:00のシフトで働くには18歳以上でなければなりません。
僕には2つ上に姉がいるので、姉の生年月日を使用し履歴書を偽造しました。そして19歳フリーターという設定で、その年の干支も覚えて面接に臨みました。

しかし、全く何も触れずに通りました。唯一聞かれたことは、バイト代は何に使うの?でした。大学に行きたいので学費を貯めようと思って〜で乗り切りました。笑

そこでは2ヶ月ほど真面目に働いていましたが、高校の授業中に気分が悪くなり廊下で倒れてしまいました。睡眠不足です。

保健室に運ばれ保健の先生から「夜勤とかやってると自律神経が乱れてこうゆうことはよくあるんだけどね〜。まあ高校生だからそれはないと思うけどね。」と読心術のように丸裸にされました。

僕は「そうなんや〜」とだけ言って、時給が高いのにはやっぱり理由があるんだなーと思い、次の出勤日から行きませんでした。
しかも連絡もなしに。。。

夜中にオーナーから携帯、実家にも鬼電がありましたが、携帯を機内モードにし、電話のコードをその日は抜き眠りました。
人生で唯一アルバイトを完全に飛びました。

給料日に8万円ほど入るはずの給料が振り込まれていなかったので、それが示談金だと思ってます。
当時のオーナーさん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。


大学時代


大学生になると、地元の個人経営の居酒屋やクレープ屋、高級BARなどでアルバイトを始めました。

地元の居酒屋は時給は普通でしたが、頑張れば50円ずつ時給を上げてくれました。人が温かく、非常に可愛がっていただき、今でも地元に帰れば必ず行きます。その他にも様々なバイトを経験しました。

クレープ屋はもともとよく行く常連でしたが、いつの間にかバイトになっていました。そこのオーナーは僕の尊敬する数少ない大人の1人です。こんな大人、こんな人間になりたいと思う憧れの人です。

フランチャイズ展開等で店舗数も爆発的に増えすごく忙しいのに非常によくしていただき、今でも時々LINEをくれます。

単発派遣のバイトでは「おい派遣〜」と呼ばれ人としてではなく物として使われ、こんなカッコ悪い大人には絶対ならないぞという反面教師にし、こんな奴らなんて速攻超えてやると思いながら、歯を食いしばって耐えました。

また、別の日は京セラドームでKis-My-Ft2のライブ会場撤去の派遣もしました。熱気と粉塵に塗れた環境で、ひとつ20キロのスピーカーを20個以上運び、体力にはある程度自信がありましたが、ヘトヘトになりました。

休憩時間中に社員さんに仮病を伝えると裏方でケータリングのおにぎりを握ったり、アーティストの使用した控え室の片付け、掃除などの仕事に回してもらいました。

同じ給料でこんな楽な仕事をして、同じ派遣のみんなには申し訳ない気持ちになったと同時に上手い立ち回りが必要だとも学びました。

このようにバイトを色々していく中で、早く会社を作りたいと思う気持ちは常にありましたが、なんのスキルもなくいいアイデアがあるわけでもなく行動できない日々が続きました。

そんな時TwitterのDMでこんなものが届きました。
”スマホ1台で経営者になりませんか?”
当時19歳の僕ですら、ねずみ講やマルチ商法だろうなと、どう考えても怪しいことは分かっていました。

でもこれも勉強か。
と思い、直接会ってみることにしました。

そうするとねずみ講や、マルチ商法とは全く違い、情報を売るビジネスなんです。あなたの得意なことを電子書籍のようにして出版し、販売しましょう。

という内容でした。今考えると情報商材という、ほぼ詐欺のようなものです。笑

でも、その時の僕はそれが近道だと思ってしまいました。
入会するには30万円かかります。

僕のバイト代はせいぜい8万円ぐらいです。到底払えません。すると、そのDMをくれた人が親切に未成年でもお金を借りる方法を教えてくれました。

学生ローンってやつです。

それと楽天カードにキャッシング枠があるからバイト代と合わせて30万円+税(当時の税率は8%なので324,000円)作って、あんなに暖かくしてくれた居酒屋のバイトも辞め、僕はその人の弟子になりました。

週に1回セミナーや飲み会がありました。飲み会には生産性がないので行きませんでした。

セミナーは自己啓発系のセミナーでした。
そこでは基本的にはまともなことを言っていました。

例えば、「夢を語った時にバカにしてくる人や、そんなの無理だと言ってくる人とは距離をとった方がいい。ドリームキラーというあなたの成功を恐れる人が、そうやってあなたを潰すのです。
歴史的に見ても成功している人はみんな孤独です。しかし皆さんには仲間がいます。みんなで金持ちになりましょう。」

みたいな内容です。

セミナーでは正しいことを言うので、「自分は正しいことをしている」と錯覚してしまいそうになりました。

でも、ぼくは気付きました。
この環境で成功している人はみんな嘘をついていることを。

そして最終的には僕も、Twitterで誰かにDMを送り、”スマホ1台で経営者になりませんか?”と言って内容のないものに、30万円支払ってもらい生活していくのだと。

それは、綺麗なお金じゃないな。
僕の思っている経営者じゃないな。
と思い、全てを断ち切りました。

当時の僕からするとものすごい大金を払って、少しだけ社会勉強をしました。


そして気付けば就職活動のシーズンへ。

一度就職してちゃんとしたスキル、経験を身につけてから起業しよう。そう思い、就職活動は真面目にしました。

でも、どこに就職すれば一番近道なんだろう。
そう考えて一番必要なのは営業力かな。という結論に至りました。
当たり前ですが、モノが売れればお金は入ってきます。お金が入ってくればご飯は食べられるかな。という安易な発想です。

営業力が身につけられる会社。そしてその中でも新規の営業ができて、形のない商材を売るのが最も営業力が身につくと考えて、就職活動の軸は決まりました。

人材派遣、投資用不動産、経営コンサル、企業ブランディング、保険代理店などいろんな会社にエントリーし面接に臨みました。

そんな中で、5次面接まであった、企業ブランディング会社の最終面接(社長との食事面接)で当時の僕に大きなヒントを与えてくれました。

僕が25歳で会社を作りたいこと。そのために欲しいスキルのこと。
貢献できるポイントなど2時間ぐらい食事とお酒を頂きながらざっくばらんにお話しさせていただきました。

そして最後に、正直うちの会社に欲しい人材ではないということ、僕が25歳で会社を作るための最短ルートはうちに入社することではなく、難易度の高い商材の営業職として営業力を身につけることが最も僕のためになること。を教えていただきました。

その後、30行近くにわたるお祈りメール(不採用通知)がその会社からは送られてきました。
※下記にそのまま記載しています。


たかが1人の就活生のために、僕の優れている点、劣っている点、身につけるべきスキルや経験など将来の指針を示して下さり、その文章は、今でも時々読み返します。本当に感謝しています。

そして最終的には内定を9つ頂き、無形商材の保険を売る仕事、訪問型の保険代理店を選び就職しました。


新卒時代


内定が出てからは早く働きたくて仕方がありませんでした。
社会に早くでたい。そう待ち望んで入社した会社は3ヶ月足らずで退職しました。

何があったのか・・・
2ヶ月間の研修と同行営業を行い、1人で営業に行ったのはたったの1ヶ月でした。退職した理由は、上司や先輩や同期との人間関係ではなく、単純に未来が見えませんでした。

今考えるとみんなの前で当時の部長に大声で20分ぐらい怒鳴られたりもしましたが、それと退職は全く関係ありません。
大きな理由は4つあります。

  1.  入社5年目の上司の給料明細を見た時に絶望した。

  2.  憧れる人がいなかった

  3.  完全分業制

  4.  駒は駒でも最強の駒になれ




①入社5年目の上司の給料明細を見た時に絶望した。

給料日に給料明細が配られ見た時に、「まあ、新卒ならこんなものか」と思った僕ですが、その時に30前後の上司の明細が見えてしまいました。
え。これだけしか給料ないの?これが正直な感想です。

僕は約3年で資本金と開業資金として目標にしていた200万円を貯めなければなりません。
完全実力主義と謳っていたその会社は年功序列ではないものの、単価の高いアポイントは、全て上司が独占していました。

そのアポイントがまわってくることはなく、一般社員が上に上がるにはその専売特許的なものなしで行くしかないのです。(年金で月5万円で暮らしてる70歳のおばあちゃんへのアポなどが大半でした。)

営業部の構造的に上に上がれなくはないが時間がかかりすぎる。
そこが1つ目の理由です。


②憧れる人がいなかった

ここに関しては単純に僕の意志の弱さもあるのですが、働く環境というのはとても大事だと考えています。
すごく偉そうで、失礼な話ですが、「こんな先輩になりたい。こんな上司になりたい。こんな男になりたい。こんな人間になりたい。」そう思える人が1人もいませんでした。
(優先座席に足を組んで座る人や結婚して子供が小さいのに仕事終わりにクラブに行く人やなんの目標もなくただ日々を過ごしている人などが大半でした。)
1年後、3年後の自分の姿を想像すると怖くなりました。


③完全分業制

就活の時点で気付くべきでしたが、この会社は完全分業制を取り入れていました。
大きく分けて4つの部署です。
新規でテレアポをする部署。アポが入りそうな段階の顧客へ電話し、実際にアポを入れる部署。現地に訪問営業し契約を締結する部署。受注後の顧客フォローを行ったり、保険会社と連携をとる部署。

組織としての効率は抜群に良く、業界の中でも注目が集まり右肩上がりで成長していました。

しかし、他部署の仕事を全く把握できないのでこのまま起業しても見込み客リストの調達方法や作り方が分かりません。
テレアポのやり方が分かりません。顧客のフォローのやり方が分かりません。それだと、自分1人ではできる力が身につかないと考えました。


④駒は駒でも最強の駒になれ

僕が退職する約1週間前に部長と直属の上司と飲みに行きました。
そこで、「慣れてきたか?」などいろいろ話して下さり、その中で将来どうなりたいの?という質問を受けました。

僕は正直に「25歳で会社を作りたいです。」そう答え、理由を聞かれると「なんかかっこいいじゃないですか〜。それに、一生企業の駒として働くのは僕には合わないと思うんです。」と伝えました。

すると部長が教えて下さいました。「駒は駒でも最強の駒になればいいんじゃない?将棋で言うなら飛車や角みたいな。」

その時点で失礼ながら、この人とは考え方が違うなと思いました。それもそのはずです。もし僕と同じ考え方なら、”部長”ではなく”社長”なのですから。

僕がなりたいのは飛車や角ではなく将棋をプレイする棋士です。
棋士になりたいのです。

その後、僕は話しても平行線で終わるなと思い「それもそうかもしれませんね。」と話を終わらせ、次の話題へ移りその会は終わりました。

その日の帰り道、僕はここでは自分の目標を果たせないなと思いました。


そして、辞めることを決意するのですが、部長は15年以上第一線で営業してきたゴリゴリの営業マンです。

キャンセルしたいと言っているお客様や辞めたいと告げた他の従業員を長時間説得して、折れさせているのを目撃していた僕は、退職代行サービスを使ってしまいました。

退職代行業者に3万円支払いお世話になった人に感謝の言葉も述べずに、会社を去りました。

義理人情に欠ける行動で本当に迷惑をかけてしまいました。
当時の同僚や上司が見ていたらこの場を借りて謝罪させて下さい。
本当にすみませんでした。



個人事業主時代


そして無事に?会社を辞めた僕は、お金がなくても起業できる方法を探りました。”もう勢いで会社を作ってしまおう作戦”です。

当時の僕には何のスキルもありません。
3ヶ月だけ社会人として働いた、ただの研修期間終了男です。

そこでそんな僕でも持っているものはないかと約1ヶ月間時間を浪費して考え、閃きました。

僕は、バスケットボールを小学校から大学までやっていました。
そうだ!バスケなら人に教えられる。そう考え、事業計画を練りました。

1人月5000円のスクールを開講して40人集められれば20万円です。20万円あれば十分に生活できます。

そう考え、翌日には生徒募集のチラシを作成しました。

そして、高校の時の友達に手伝ってもらい、丸2日掛け近所のスーパーのコピー機で5000枚のチラシを印刷し、近隣の家族層向けのマンションに投函しました。

すると次々に反響があり、スタート前にも関わらず、約30名の保護者からバスケを習わせたい。体験に行ってみたい。と連絡が入りました。

こんなにも上手くいくものなのか。
と少し恐怖を覚えながらも、僕は心が躍りました。

しかし、肝心の場所を確保できていなかったのです。
生徒募集のチラシには〇〇区周辺の体育館と表記していました。

急いで周辺の体育館の空き状況を調べました。
ひとつの小学校で空きがありかしていただけることになりました。

ほっと一息つき、各保護者へ日時場所等の詳細な情報を送り、第1回目は約20人の子どもたちが集まってくれました。
そして怪我もなくみんな楽しそうにしていて、ほぼ全ての保護者の方から通わせたいです。と言っていただきました。

会費の話やスポーツ保険の話などを各保護者へ説明し、次週から通っていただく流れで第1回目を終えました。

しかし、翌日に1本の電話が入りました。
昨日使用した小学校の教頭先生からでした。

「あなたたち、月謝5,000円もとるんですか?小学校の体育館は使用料もかかりませんが、公共の施設のためある一定の方が利益を取ることはできませんよ。チーム運営にお金がかかるのは理解できますが、せいぜい1人500円で他の団体さんはしていますよ。5000円では今後貸し出しはできません。」

なんと、僕のリサーチ力の甘さ、”もう勢いで会社を作ってしまおう作戦”のせいで思わぬ落とし穴がありました。

じゃあどこか、時間単位でお金を払って使用できる体育館を探そう。そう考え、1件1件電話していきましたが、どこも全て埋まっていて身動きが取れなくなりました。

そうして僕のバスケットコーチとしての個人事業主作戦は泣く泣く、道が閉ざされました。そうなると生活できなくなります。

家賃や生活費やバスケットボールの備品代などですでに20万円ほど借金をしていた僕は、高単価のアルバイトをすることにしました。



迷走時代


法さえおかさなければ、闇バイト的なものでもいいと考えてしまっていた僕は、”別れさせ屋”のアルバイトをすることになりました。

仕事内容はシンプルです。

よくあったのは浮気相手と結婚したいので、旦那さん(奥さん)と別れたいが、不利な条件で離婚することになる。

だから、奥さん(旦那さん)側に恋愛感情を持ってアプローチをして、奥さん(旦那さん)側にも浮気をさせて証拠を押さえ、逆に依頼者が有利な条件で離婚するための接触のバイトでした。

尾行調査や実際に対象者をナンパをしたり連絡先を渡したり、時には体の関係を持つように指示もありました(実際には関係を持つところまでは発展しませんでした)。

そんなバイトと週に1回のバスケスクール(ボランティア)の日々でした。

気付けば借金30万円+クレジットカードの未払いなどで総額60万円前後の負債を背負いました。

毎日、茹でたパスタに醤油をかけて食べていました。

そんな生活が続くともう一回ちゃんと社会人として働いて200万円貯めて会社を作ろう。と思い、バスケチームは保護者さんに運営を任せることにしました。

そして、エージェントと話を進め、面接し、成長中のベンチャー系人材紹介の会社から営業職での内定をもらいました。

そこに就職しようとしていた時に、大学生の時インターンでお世話になっていた求人系会社の社長からフラフラしてるなら一緒に働かないか?と誘いを受け、ベンチャー系人材紹介の会社の内定を蹴って、そこで働きました。


いま


その求人系会社で2年半勤め、200万円貯金し営業スキル、マネジメントスキルを身につけ遂に会社を設立しました。

そして、無事1期終え、2期目になりました。実際にやってみると経営は本当に大変です。でも楽しいです。

そんな僕のながーーーい(京都銀行のCMのような)自己紹介はこれで終了です。
みなさんぜひ、気軽にフォローしていただき、もしよければ友達になって下さい。笑

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