2020年の話をしよう(コロナの頃)
最近2020年の自分の日記を読み返している。
もともと日記は「日々の感情を言語化して、気持ちを落ち着けること」が目的なので、読み返すことはほとんどない。
いまだに2011年の日記を読み返す自信はない。
それほどまでに厄災というものは、心を折ってしまう。
神様に見放されたような感情は、案外いつまでも処理できないものだ。
2020年の記憶は「感情の刺々しさ」だけが残っている。なんでそうだったのか、細かいことまでは忘れてしまった。
日記を読み返す。
あの頃わたしたちは生死をかけて病を恐れ、疑心暗鬼になって、閉塞感だらけになってしまっていた。
思い出さなくてもいいのだけど、なぜにそうだったのか、少し思い出してみたいと思った。
緊急事態宣言
緊急事態宣言のなんたるかもすでに忘れてしまったけれど、不用不急の外出をしないってことだったのだと思う。
年老いた母の家に行くことも控えた。わたしが行かないとさみしそうだったので、電話だけはしていた。それでも、さみしそうだった。
県をまたいだ移動もしないようにと。県外ナンバーは嫌な目で見られた。我が家は近隣の川を挟むとお隣の県。通勤も含めての県外ナンバーが多かった。
旅行も外食もできなかった。こわくて本当に外食ができなかった。そうやって罹患して、そこから人に移すことがとてもこわかったのだ。
マスク不足
とんでもないマスク不足で、布マスクを洗って使うこともあった。
あべのマスク! あれはひどかった。ガーゼの色が変色しているのがたくさんあって、わたしたちは介護職なので事務所で仕分けしてきれいなものだけを配った。
なのにLINEで「あべのマスクを使わない方は介護施設に寄付してください」みたいなのが流れてきて、胸ぐらつかみたかった。
あと、手作りの布マスクも見知らぬところから送ってきた。障害者の福祉作業所からだと思う。
「みんなのモチベーションになるように、マスクをつけた写真を送ってください」
という手紙がつけられてて頭抱えた。
知らない人が作った「手作り」なんて、口につけられないよ!!!
ちなみに花の消費が減ったため「花束」を「パチンコ屋の開店」くらいの量でいただいた。スタンドでみっつもよっつも! デイサービスの入り口がパチンコ店の開店状態になってたけれど、あれはちょっと微笑ましかった。あとでみんなで花を分けた。
ホテル療養
友人がコロナになってホテル療養した。思い返すと、コロナでホテル暮らしなんて豪勢!とも思ったが、そんなものではなかったらしい。1日部屋で過ごす。そして1日に3回ロビーに無言で弁当を取りに行くのだという。家族と分かれてひとりでの療養。
「療養時にはネトフリ」という時代の幕開けだったように思う。
ちなみに自宅療養のときは「お弁当の配達」もあった。
けっこう市内の有名店が請け負ってたので、あれもおいしかったらしい。
わたしが自宅療養したときは終了していた。
テイクアウト弁当
食堂関係はコロナの給付金もあったらしいけれど、重宝したのはいろんなお店のテイクアウト弁当だった。
いつもは前を通っても入ったこともない焼肉店に「焼肉弁当テイクアウト」と書いてあった。思い切って、入って注文して、その場で豪華な焼肉弁当を焼いて渡してくれた。
あのありがたさは忘れない。
「いつか、テイクアウトじゃなくて、ここで食べたい。どういうコースがあっておいくらくらいなのですか?」
と聞いていろいろ親切に教えてもらった。
コロナが終わったらきっと食べようと心に誓ったのに、まだ実現していない。
その後、外食したいときはひとりで、という時期が長かった。
ひとりでこっそり食べたのは「コナズカフェのパンケーキ」。
あの味もまた「ささやかだけど、とても贅沢な味」だった。
謎アプリ
「コロナの人と接触しました」というのがわかる謎アプリがありましたね。
あれはいったい何だったのでしょう?
病床不足
医療が充実している町で、救急車で行き場所がないことはほとんどなかったのだが、コロナ禍で入院できない人が続出した。
大腿骨骨折で手術が必要な人が入院できない。
主治医が大病院に電話かけまくって、確保してくれた。
「救急車に乗せたタイミングで救急処置室に電話をかけて。そして、今、乗りました、受け入れお願いしますと言って!」
そのとおりにしたのだが、日程がたたず手術は叶わなかった。郊外の病院に転院になって、時間がかかっての手術となった。
罹患してなくなった人たち
芸能人でなくなって報道された方(志村けんは衝撃だった!)もいたけれど、実際にわたしのクライアントでコロナが原因で亡くなった方もいる。
ひとりは入院中の病院で罹患した。
病院や施設で移るなんて、と思われるだろうが。食事やお風呂の介助をするのだからリスクは何倍もあると思う。
なくなったあとの処置もコロナだとお金が格段にかかったと聞いた。
もうひとりは、家族がコロナになって、要介護者のその人だけが悪化した。
病院で療養したが、もう、家に帰りたいと看取り目的で帰ってこられた。
寝たきりだったけれど、嬉しそうだった。「焼酎飲みたい」と言ったら、ヘルパーさんがスポンジブラシで飲ませてくれた。
それから数日でなくなった。
コロナが軽症化しても、基礎疾患のある人にとってはそれが命取りになる。
だから「病院ではマスク」やはりしてほしいです。
疑心暗鬼
「かかってないよね?」「咳が出るけど?」からはじまる疑心暗鬼。
系列に老人施設もあったので、クラスターのたびに「ヘルプに行く人とは一緒の部屋にいたくない」とか、露骨な差別も発生した。
マスクをはずして電話をすると注意された。
食事は「黙食」。
学生だった人たちもかなりつらい時期をすごしたに違いない。
それでは今はぜんぜんオッケーかというとそうでもない。
わたしたちはあの頃の「疑う気持ち」を、心の中に記憶している。
「自分たちが会って、おばあちゃんに移るといけないから」と祖母と会うのを子供たちは躊躇していたが、もうすでに母も亡くなり、「あのとき、もっと自由に会ったり食事をしたりすればよかった」と思うこともある。
わたしたちは「できなかったことを我慢し、制限されていた時代のこと」を記憶している。
そういう時代からはや数年。
いろんな制限はゆるやかになってきたものの。
記憶したものをゼロにはできない。
小さなディテールもすでに忘れているのに。
あの頃の「誰かを疑ってしまうような気持ち、疑心暗鬼な気持ち」だけが、まだ心の中にくすぶり続けている。
忘れることはできないけれど。
災厄がそんなふうに心に残ることを記憶して。
そして、この次は(ないといいけれど)、もう少しいろんなことにソフトランディングできるようになりたいと今は思っている。