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貴方のものになりたい。けれどそれを、他人に知られたくはない。

 左手の薬指、私はあなたの指にしるしをつけたくてしかたがない。
 安いペアリングなんかじゃなくて、数十万円の銀色の指輪で薬指を飾る妄想をする。私の薬指とペアの指輪。誰が見てもわかる、誰かのものだという証。

 私と彼はまだ付き合いはじめて2週間がたっただけだ。それでもよく「いつか」の話しをする。

「俺にひとりでご飯を食べさせないでよ」
「私がいじけてご飯を作らなかった時、ちゃんと作れるように教えるね」

 結婚を前提にしたお付き合いはしていない。私も彼も、結婚願望は持っていない。もし、ずっと一緒にいて必要になったら書類を出せばいい。その程度の考えなのに、私たちは一緒に暮らす話しをする。

 私は夜に怖いと泣く。彼は遠くに住んでいて、私は彼のそばで恋人ぶって隣を歩くことができない。
 彼は優しいから、きっと女の子に人気だ。きっとそうだと勝手に思って不安になる。

 24歳になると周囲はうるさくなる。「彼氏は? 結婚は? ぼーっとしていたらあっという間だよ」。
 うるさい、黙れ!
 そう叫べたらもっと楽だったかもしれない。私は曖昧に笑っている。会社の中で、取引先と話しをしながら、私は笑って思っている。
 結婚したくない。私は彼のものになりたいけれど、私が彼のものだと知られたくない。

 私の勤めている会社では、姓が変わると社内で使う名前も変わる。社員証、名刺、メールアドレス。業務連絡に結婚の報告が載ることさえある。
 私はそれが嫌でしかたがない。

 結婚して姓が変わるのはいい。むしろ、私は彼と同じ苗字を名乗りたい。名前が変わったらいそいそとはんこを買いにいって、スキップしながら宅配便を待つだろう。

 友人にだって祝福されたい。たくさんの「おめでとう」がほしい。私が幸せなことを知って欲しいし、うれしがって欲しい。両親にだって報告したい。バージンロードを歩いてみたい。

 夢はあるのに、私は彼のものになりたいのに、私は世界に存在する他人に私が彼のものになったと知られたくない。どうして? とあなたはいうかもしれない。

 メールアドレスが変わったことを伝えなければいけない。名刺が変わったのだと、挨拶にまわらなければいけない。結婚しましたと喧伝してまわらなければならない。

 どうして、私に配偶者ができたことを周囲に伝えなければならないのだろう。取引先や会社の人に知られることで、私は私の幸福を踏みにじられるような気がする。

 私の勤める会社のとある女性社員が結婚して、会議の場でそれが発表された。「メールアドレスが変更になりますので、ご迷惑をおかけしますが……」という言葉に、どうして、と思う。
 彼女は何も悪くないのに。祝福されたいかもしれないのに、どうして迷惑をかけると口にしなければならないのだろう。

 あやふやな未来なのに、私は勝手に妄想して、落胆する。

 「あなたのものになりたい」と私がいったら、彼は「ゆきさんは、俺のものじゃないよ」と返してくれる。その後に「ゆきさんを飾るものを、俺が全部選びたい」という。

 私はきっと怖いのだ。もし、名字が変わって、いろんな人に「結婚したんです」と言ってまわった後に、彼の左手の薬指を許される人でなくなってしまったら、そのときには私が彼をつなぎとめるだけの魅力がなかったと知らせるようで。

 彼は「どうして、ありもしない未来を考えて怖くなるの?」と私に囁いてくれるだろう。だって怖いの、と泣いたら慰めてくれるだろう。
 私より寂しがりやで、とても優しくて、愛情深くて、感情をうまく隠してしまえる人。思い出すだけで、私には不釣り合いな彼。

 ずっと側にいたい。恋人になったばかりで浮かれているだけかもしれない。浮かれていたとしても、この感情に嘘はない。

 彼と同じ柔軟剤の香りに包まれたい。お風呂上がりに彼と同じシャンプーの香りになりたい。「いってらっしゃい」と「いってきます」を直接言える距離にいたい。

 結婚しなくても叶えられる夢だと思う。結婚したいという気持ちはない。ただ、彼と名字が同じになるのなら、私の名前は幸福を示す文字列になる。


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