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[読書記録] 第三の男

作者: グレアム・グリーン
訳: 小津次郎
出版:早川書房

1950年アカデミー賞撮影賞「第三の男」の原作小説。映画のために書かれた作品なので、まずは映画を観るのがお勧め。ストーリーが大きな変換点を迎える瞬間の映像演出は印象的で、私の心拍数が一時的に乱れるほど。。。


作家のロロ・マーティンズは、友人のハリーライムに招かれて、第二次大戦終結直後のウィーンにやってきた。だが、彼が到着したその日に、ハリーの葬儀が行われていた。交通事故で死亡したというのだ。ハリーは悪辣な闇商人で、警察が追っていたという話も聞かされた。納得のいかないマーティンズは、独自に調査を開始するが、やがて驚くべき事実が浮かび上がる。

裏表紙より

本作の感想としては、悪に関して何か書くのが必須だと思うのですが、同じグレアム・グリーンのブライトン・ロックの投稿で考えすぎて少々気持ちが重いため、他の観点から3つほど感想を。

まず物語を書いてからでないと、シナリオを描くことは私にはほとんど不可能だ。—(中略)—小説という媒体の効果を別の形式で再現することは可能であるが、シナリオ形式で最初の創造はできない。

p.8

本作がいかにして映画のための物語として生まれたか、9ページにわたる序文で解説される。序文からは、当時のウィーンが4つの戦勝国にいかに支配されていたか、戦後特有の警察体制、闇市、下水道の役割について、一歩深く知ることができる。映像としての物語において、歴史的背景がここまで整理して語られることはあまりないだろうと思う。

原作のもう1つの面白さは、人物たちの感情が言葉で描写されていること。映像では俳優の表情からしか読み取れない。警察官キャロウェイ大佐が、マーティンズの「執着」「無鉄砲さ」「ハリーに対する羨望」をどう評価していたかを知ることは、小説ならではの面白さだと感じます。

現在流行っている「早送り鑑賞」や「本の要約サービス」というのは、このような作品の面白い部分を全部削って、シナリオに焦点を当てたものなのだろうと思う。しかもそこには、映画が作られるときのような、再解釈や考察も(ほとんど)なく、雰囲気や表情が追加されることもない。筋立てだけで、この話は本当に面白いのだろうか。仕事以外で、効率なんてどこまで本当に必要なんだろう。そこまでして、読んだり観たりしなければいけないものは、一体何なんだろう。

人を理解するにはゆとりをもたなくちゃなりませんわ。

p.140

ハリーの愛人が、自分の恋人が悪人だと聞かされた時に放った言葉。私たち個人の性質の大部分は、第三者からは(場合によっては自分自身からも)見えない。それは、ハリーがそうしたように、本人が意識的に隠している側面だけではないはず。

だから、相手の意外な一面をみつけて少し驚いてしまっても、それが自分の正しさに反しないのであれば、受け入れてしまおう。私自身にも矛盾するたくさんの気持ちがあり、好き嫌いをし、動機のない行動をするのだし。相手のことが今苦手であっても、明日、頼りがいのある一面を発見してしまうかもしれない。

ただ、もし、信頼している相手にあまりにも傷つけられてしまったら、自分の身を守るために逃げてしまおう。

いつだって万事を自分でやりたくなるものだ。自分の部下を咎めてはならない。—(中略)—部下なら避けたと思われるあらゆる種類の過ちを、たぶん私は犯したろうと思う。

p.156

警察官キャロウェイ大佐が部下の失態に対して抱いた言葉で、部下がいなくても、心にとどめておきたい一文。社会のほとんどの組織がそうであるように、ある1つの目的に対して複数の人間が動き、各々がある一定以上の誇り(あるいは責任)を負うとき、この言葉が必要な場面は多々ありそうです。


1952年に初公開された「第三の男」は、ハリー・ライムを演じるオーソン・ウェルズの出演代表作としてあまりに有名。ウェルズといえば「市民ケーン」が監督作品として有名ですが、いつか観ようと思っているうちに2024年になってしまいました。Amazon Primeで観られるみたいなので、この機に鑑賞しよう。

本作品の主題歌がエビスビールのCMで使われているため、日本人には非常になじみ深い。監督はキャロル・リードという人で他作品を観たことはないけれど、車のヘッドライトに浮かび上がる"彼"の顔、生への渇望の表現、ウィーン各所の映像のコントラスト、一場面一場面が非常に印象的。本作の演出や台詞にどこまでウェルズが干渉したかはわからないけど、「ハバナの男」「落ちた偶像」はリードがグリーンと組んで撮影した作品のようなので、公開媒体が見つかったときに観たいなぁと思います。



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