快楽論、幸福論

瞬間的な快楽を単純に「快楽」と呼ぶのに対して、継続的な快楽を「幸福」というのだと何かの本に書いてあったと記憶している。

快楽とはある事象をしたときに得られる生体的な反応であり、ドーパミンやセロトニンが代表的な物質であるが、それらのホルモンが分泌されたときに感じることのできるものである。それは人間の最大目標である、生殖本能を満たしたときに感じられるものだと思う。

瞬間的な快楽としてまず多くの人が思い浮かべるだろうものがセックスである。これは先ほども述べたように、人間の(あるいは生物種のすべてにおいて)最大目標である、生殖本能を満たした時に得られる物質として、単純明快なものである。しかしこれは持続的なものではない。セックスでオルガニズムを達成したところで、その数分後には快楽は消失している。

今度は逆に、我々が快楽を得たいと思ったときにすることは何だろうということを考えた際に、飲み会にいく、ということが一つあげられる。飲み会に行くと、多くの人に囲まれ、またアルコールも相まって快楽を感じさせる。しかし次の日になると妙に羽振りがよくなっていた昨日の自分のせいで財布の中身はからっぽになっていて、不愉快な気持ちを覚える。したがってこれは継続的な快楽とは言えない。

ここで、継続的な快楽を得るほうが大事なのか、瞬間的な快楽を得るほうが大事なのかを問うてみたい。

例えば多くの人とのセックスで連続的で瞬間的な快楽を得られることはできる。しかしそれは長く続くものではない。

連続的な快楽とは、「幸せ」「幸福」と言われるものであり、それは瞬間的な快楽の連続ではなく、安定した快楽であると思われる。

連続的な快楽としては、恋人と過ごす時間や、家族と過ごす時間、経済的安定があると思う。

友人と酒をあおり、大騒ぎして、その時は楽しいとしても、帰ってきたら虚無感を覚えたり、或いは深い意味でのつながりを感じていなく、むなしい気持ちになったりする。それに対して、恋人や家族との交流は、深い部分での交流であり、人間にとって本質的なものであると思う。

瞬間的な快楽はとても得やすいものであって、持続性が低く、またその快楽を得た後には虚しさが残りうるものであると感じ、また、連続的な快楽とは、幸せ、や幸福といった言葉で表されるような、安定性をはらんだ快楽であると感じる。

私はバイクに乗ることが好きではあるが、バイクに乗ることは瞬間的な快楽に分類されると思う。私は先ほどまで家の中にいて退屈していて、久しぶりにバイクに乗ってみようと考えていたが、バイクに乗っている間は楽しくても、一瞬でその快楽は過ぎ去ってしまうことを考えると、バイクに乗ることはそんなに必要としていないからいいや思うようになってしまった(ローンがあと4年半ほどのこっているにもかかわらず)。

セックスだって、その場だけのものであれば瞬間的な快楽に分類されるし、あるいは恋人とのものであれば連続的な快楽に分類されると思う。それと同じように、ただその場しのぎのセックスをしたところでそのセックスには意味がなく、それゆえ虚無感を覚えることを考えると、する必要のないことだと考えられる。

瞬間的な快楽が悪いと断じることは決してできないが、それは持続性が低い故、意味をなさないことが多いと思う。

瞬間的な快楽主義者は、連続的な快楽なんてぬるま湯のようで面白くなさそうだと思うことだろうと思う。しかし連続的な快楽とは人間の精神の安定には欠かせないものだと考えられる。

なぜなら、瞬間的な快楽の連続にある思考とは、快楽を増加させたいという願望であり、それは自分の資産を使い尽くしたり、またどんどん悪い薬物に浸かっていったり、大事な恋人に見放されたりといったように、悪い方向に向かってしまうことが多いと思うため。

人間の99%の遺伝子はサルと共通であるらしい。セックスセックス、パチンコ、たばこのサルがいても、傍らお金をためて資産家になるサルもいる。こういったサルの間にはどんな違いがあるのか。それは遺伝子の染色体のほんの少数第二位以下の違いによって決まるのであろうか。疑問を呈さずにはいられない。


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