「黒水仙」も「静かなる男」も、イエーツも、原点が消滅した
「リバーダンス」と言っても、ご存じない方が多いかもしれないが、これは、アイルランドの伝統的なダンスをベースにして創作された新しいタイプのダンスショーである。
1994年にダブリンで開かれたユーロヴィジョン・ソング・コンテストで幕間に行なった7分間の初公演が大反響を呼び、その後、独立した1つの作品に成長した。97年にグラミー賞を取り、「リバーダンス現象」を引き起こして、世界中に増殖したのだ。
何度か来日しているので、見に出かけたこともある。
リバーダンスの誕生と成長は、アイルランドの驚異的な経済成長とその背後にある世界経済の構造変化に、密接に関係している。
リバーダンスの第2幕は、アイルランド移民の歴史を描いている。故国を離れて大海を渡り、新世界に生活せざるをえない環境に追い込まれた人びと。そこでのさまざまな民族との交流。
ここには、スペインの踊りやロシアの踊りも登場する。ロシアで育ったクラシックバレエにも民族舞踏が登場するから、異国の踊りが含まれていること自体は、別に珍しくはない。しかし、リバーダンスには、アメリカの黒人たちも登場する。つまり、これは伝統の復活ではなく、帰国する移民の子孫たちを迎えつつあるアイルランドが、新しく生み出した作品なのだ。
1970年代まで、この国はヨーロッパで最も貧しい国であり、「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた。
特に1840年代の「ジャガイモ飢饉」の際には、100万人以上が餓死し、骨だけの人が死体と共に生活するという地獄の世界が現出した。アイルランドの人びとは、それから逃れるために、恋人や家族と別れて海を渡ったのである。こうした歴史がなければ、映画「黒水仙」や「静かなる男」の物語りは成立しなかった。
現在のアイルランドの人口は400万人に満たないが、ジャガイモ飢饉の前にはその2倍だった。世界中に散った移民の子孫は、700万人以上と言われる。「アイリッシュアメリカン」と呼ばれるアメリカのアイルランド移民の子孫は4000万人を超す。彼らは貧しかった。
アメリカでは、消防士や警察官に多い。
映画「ミリオンダラーベイビー」に見るように、女性でさえボクサーにならざるをえなかった。
なお、アメリカの映画関係者には、アイリッシュ・アメリカンが多い。監督もジョン・フォード監督を初めとしてそうだし、俳優もきわめて多い。実力だけで出世できるからだろう。
「The Best of Riverdance」というDVDのなかで、ジーン・バトラー(初代のプリンシパルダンサー)は、テオ・ドーガン(現代のアイルランド詩人)の詩を引用する。
「明け方、船は出航する。恋人たちの嘆きは潮に打ち上げられ、悲しみを知るに若過ぎる者の心は引き裂かれる。海は深く、暗く、そして広い」
そのアイルランドが、80年代の半ばから、誰もがそれまで予想していなかった急激な経済成長を始めたのである。そして、アイルランドは、ヨーロッパで最も豊かな国の一つになった。この驚嘆すべき変化を形容するのに、「病人だったアイルランドがCeltic Tiger(ケルトの虎)になった」という表現がよく使われる。
2016年において、アイルランドの一人当たりGDPは、日本の1.7倍程度である。90年代の初めには日本の半分もなかったから、いかに驚天動地の変化が起きたかがわかる。この差は、将来拡大する(下記のグラフで将来の値は、IMFの推計)。
2016年において、アメリカに比べても1.1倍、イギリスに比べると1.6倍になる。
90年代の初め、日本でアイルランドとの比較など意識していた人はいなかったろう。日本だけでなく世界のどこにも、この国のことを気にかけ、経済的な指標でアイルランドと自国を比較しようなどと思った人はいなかったに違いない。
90年代以降、かつての移民の子孫たちが大挙してアメリカからアイルランドに帰還している。
それは、映画「静かなる男」の主人公のような傷心の帰国ではない。アイルランドで労働力が不足し、またアイルランドがアメリカより豊かな国になったために、移民の子孫が戻ってきているのである。それに加え、東欧などからの労働力が押し寄せている。アイルランドは若返った。30歳未満の人が人口の半分を占める。
「リバーダンス」の解説で、プリンシパル・ダンサーのジーン・バトラーは言う。
「移民の子孫たちは、古い記憶を胸に、勝ち誇って帰国しています。これは、循環的な旅(cyclical journey)の完了を象徴する出来事なのです」
彼らの祖先は、家族や恋人と別れ、抑圧された貧しい農業国から脱出した。その子孫たちが、20世紀の工業国を飛び越えて、一挙に21世紀型「脱工業化社会」となった祖国に戻りつつあるのだ。
J.R.R.トールキンの長編ファンタジー『指輪物語』に登場する妖精エルフは、人間族に追われてミドルアースを西に逃げる。そしてついには、大洋はるか彼方の大陸に渡る。
それは、アングロサクソンに追われて大ブリテン島の北や西端に、そしてアイルランドに追い詰められ、さらに大西洋を渡って新大陸に逃げていったケルトを想像させる(実際、彼らの言葉であるエルダール語は、ケルトのゲーリックを基としてトールキンが創作した言語である)。
しかし、エルフの子孫たちは、いまや「循環的な旅」を終え、故国に帰還しつつあるのだ。
貧しさが売り物(?)だったアイルランドに豊かになられては、イエーツも「黒水仙」も「静かなる男」も、原点が消滅する。
これらだけでなく、多くの文学作品や映画の基盤が失われた。価値の基軸となるものが一変してしまったので、70年代までの文学や映画は、もう理解できなくなってしまった。
イギリスより豊かになってしまったのでは、イエーツの詩情は成り立たない。
岩波少年文庫のアイルランド伝説集『カッパのクー』を中学生の時に読んで以来、私はアイルランドの妖精にあこがれ続けてきたのだが、彼らももう絶滅してしまったことだろう。
「ミリオンダラーベイビー」のマギーは、ボクサーにならずに、アメリカより豊かな国アイルランドに行けばよかったのだ。「大空港」のグエレロのように中年を過ぎては無理だが、マギーは若いから、十分可能性があったはずだ。
日本人という観客が居眠りをしていた第2幕で起こった最も大きな事件が、アイルランドの驚くべき経済成長だった。
なぜこうなったのか?。一般には、教育や海外投資が言われる。ただ、それらの根底にあるもっとも重要な要因は、技術環境が大きく変わったことだ。
それがシリコンバレーの大躍進をもたらしたのだが、アイルランドも同じように成長した。そして、他方では、デトロイトの没落がもたらされた。
これが世界経済変化の基本である。
暫く前に、アイルランドの経済学者とこの問題を話す機会があった。彼は、「世界が変わったのだ。その変化は、アイルランドのような国に有利な変化だった」と言った。それは同時に、日本やドイツのような20世紀型産業大国には不利な方向の変化だったのだ。90年代とは、そのような時代だった。