アンチエイジングの読書?
「悪魔は年寄りだ。だから、歳をとらないと悪魔の言葉は分かりませんよ」
(Der Teufel, der ist alt, So werdet alt, ihn zu verstehen! - Johann Wolfgang von Goethe, Faust II, Vers 6815 ff)。
メフィストーフェレスのこの言葉が正しいとすると、「若い人には世の中の仕組みは理解できない」ということになります。ゲーテ自身もエッケルマンとの対話で、「年をとると、若い頃とは違ったふうに世の中を見るようになる」と語っています。「若い者には分かるまい」とは、老人症候群患者の繰言とは限らないのです。
これは、私自身の実感でもあります。最近になってようやく世の中の仕組みが分かってきたように思うのです。「今頃になって分かったとは、何たること」と残念に思います。「30年前に知っていれば、もっとうまく生きられたのに!」と地団太を踏みます。しかし、メフィストが言うとおり、それは不可能なことだったのです。
一般に、歳をとるほど知的能力は高まります。考えてみれば、当然のことです。知識はストックですから、年齢を重ねるほど増える。そして、知的能力は、知識が増えるほど高まるからです(自然科学では少し違うかもしれませんが)。
このことを表わすのに、matured という言葉があります。「成熟した」とか「円熟した」という意味です。matured economistとは、確率偏微分方程式などを振り回す段階を卒業した経済学者のことです。演奏家では、アイザック・スターンがmatured violinistです(彼自身は、matured fiddlerと言うでしょうが)。歳をとれば誰でもmaturedになれるわけではないのですが、年齢が必要条件であることは間違いません。
したがって、私は「アンチ・エイジング」という概念に反対です。
「アンチ」というからには、「エイジングとは抗すべきもの、望ましからぬもの」という暗黙の前提があると思われるからです。しかし、上で述べたように、そうではないのです。歳をとれば肉体的能力は低下しますが、知的な能力は高まります。問題は、高まった能力を使い切るだけの時間的余裕がなくなることです。ですから、地団太を踏むのです。やりたいことが増えるのに、使える時間は減ってゆく。余計なことをやってはいられません。
ファウストが若返りの契約を悪魔としたのを、不可解なことだとかつては思っていました。しかし、いまでは分かります。彼は、肉体的には若返ったにもかかわらず知的能力は碩学ファウスト博士のままなのですから、「いいとこどり」をしたわけです。こうしたことが可能なら、誰も、どんな条件も受け入れて悪魔と契約するでしょう。
現実世界で普通は不可能なことですが、ゲーテはファウストに近い体験をしました。大病から回復したあと、若返ったのです。
保養地マリエンバートに滞在していたゲーテは、知人の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに対して激しい恋愛感情を抱き、結婚を申し込みました(ゲーテは、7年前に妻をなくしていました)。
しかし、年齢差がありすぎて、実現しませんでした。どのくらい差があったかと言えば、フォン・レヴェツォフは19歳、ゲーテは74歳でした。
ゲーテがすごいのは、それからです。逃げるようにマリエンバートを発ったゲーテは、馬車のなかでDie Elegie(『マリエンバート悲歌』)という詩を作りました。これは、ゲーテ晩年の詩の最高傑作とされます。
「ドイツの詩文学は、このときほど偉大な日をそれ以降経験していない」と、シュテファン・ツヴァイクは言います(『人類の星の時間』)。ワイマールに戻ったゲーテは、『ファウスト第Ⅱ部』と『ヴィルヘルム・マイステル』の完成に向けて、全霊を傾けました。
「心配を知らぬ人々の快活な遊びの世界に、私はもう決して行かないだろう。今後の自分の生活は、仕事への専心のみにある」
ゲーテ様には及びもないのですが、われわれもせいぜい身体を鍛え、高まった知的能力を残された時間で最大限に活用しようではありませんか。
「細かい字が読めなくなった」という人は、本をスキャナでコピーしてpdfに転換すれば、いくらでも拡大して読めます。
「眼力が衰えて星が見えない」と嘆く天文老人は、金を出して高級望遠鏡を買えばよい(それが天文少年だった時との違いです)。50年前に感激した映画のDVDを見つけたら、最新式大画面に映し出し、その当時の映画館を再現しましょう。
私の友人のある医者は、「あと10年もすれば、がんは確実に直せる病気になる」と言っています。世の技術進歩は、年齢を重ねる者に有利な方向に進んでいることを知るべきです。
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目次(その1)総論、歴史読み物
目次(その2)小説・随筆・詩集
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