映画は終わりが肝心(1)
映画は終わりが肝心である。なぜか?
観客はすでに料金を払って映画館の中に入っている。だから、最初が面白くないといって、出て行ってしまうことはない。
それに対して、最後の場面はよく覚えている。その場面がいつまでも印象として残る。だから、映画の評価の大部分は(知らない間に)最後の場面の印象によって作られている。
最後のシーンの最高傑作は、何といってもタルコフスキイの「ストーカー」だと思う。それ以外にも、強烈な印象を与えるものがいくつかある。
以下ではそれらについて述べるが、これは、「ネタバレ」と呼ばれているものだ。だから、まだ見ていなくて最後の場面を楽しみにしている方は、読まない方がよいかもしれない(ただし、最後を知ったからと言って、これらの映画の価値が下がるわけではない)。
わずか数秒間の映像が、それまでのストーリーに、まったく新しい意味を与えるものがある。
その典型は、オーソン・ウエルズの「市民ケーン」(1941年)。
これは、新聞王ウイリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした映画で、ウエルズが25歳のときの作品だ。
ケーンは、臨終の際に、「薔薇のつぼみ(Rosebud)」という謎の言葉を残した。「Rosebud とは、いったいだれか?」 これを解明するため、新聞記者が、生前ケーンと親しかった人々にインタビューして歩く。映画は、彼らの証言をもとに、ケーンの生涯を明らかにしてゆく。
ケーンの生家は、山のなかの貧しい宿屋であった。客が宿賃代わりに株券を置いていったボロ鉱山で金が発見され、ケーンの家族は一挙に大金持ちになる。上流階級にふさわしい教育を受けるため、幼いケーンは両親のもとを離れて都会に出てゆく。
大学時代の友人と新聞社を始め、積極的な編集で米国一の大衆紙を築く。大統領の姪と結婚し、知事選に出馬。当選直前までゆくが、スキャンダルが暴露されて敗北、離婚。等々、波瀾万丈の一生が再現される。しかし、「薔薇のつぼみ」の謎は解けない。
最後の場面は、ケーンがつくった城の大ホール(この城は、カリフォルニア州サンシメオンに、「ハースト・キャッスル」として実在している)。
収集癖があったケーンは、膨大な数の収集物を残した。それらがホールに持ち出され、整理されてゆく。美術館10館分という美術品と骨董品の山、思い出の品々など。しかし、どうでもよいようなガラクタも多い。無価値と判断されたものは、作業員が暖炉に投げ込んで焼却している。
その中に、子供用の橇がある。ケーンが母親から無理矢理引き離された雪の日、遊んでいた橇だ。橇が炎につつまれ、描かれた商標が照らし出される。それは、薔薇のつぼみの絵だ!
このシーンを初めて見たとき、あまりの衝撃で、映画が終わっても椅子から動くことができなかった。
同じような衝撃は、ジョージ・ルーカス監督の出世作「アメリカン・グラフィティ」でも経験した。
1960年代のカリフォルニアのある田舎町。高校卒業式の一日の出来事だ。ダンスパーティ、ガールフレンドとの行き違い、自動車レース等々、たわいない挿話が続く。バックに流れる60年代の音楽にセンチで幸せな気分になって、映画が終わった……。
と思ったら、まだ続く。登場人物の「その後」を記した字幕が、たんたんと流れる。「酔っ払い運転の自動車事故に巻き込まれて死亡」、「ベトナム戦争で行方不明」等々。観客は、一挙に現実世界に引き戻され、60年代がもはや取り戻せない世界であることを思い知らされる。このときも、私は椅子に縛り付けられてしまった。
(ついでに言うと、この映画では、無名だったハリソン・フォードが、端役として映画初出演している)