ちょっと言葉を変えるだけで、幸せは増幅する
今まで、コミュニケーションに関する情報や書籍を読んできた。それは、自分の思っていることが伝わらない、伝えたいことがあってもうまく言葉に出来ず結局口に出せないという課題感があったからだ。しかし、色んな書籍を手に取っても、「何か違う」という違和感を持っていた。
書籍『「わかりあえない」を越える』を読んで、コミュニケーションの根幹について頭を打たれるような衝撃を受けた。
私はそれまで、コミュニケーションとは、自分のことを表現することだと思っていた。「相手のことを理解する」という視点を入れていなかったのだ。いうならば、子どもが何か買ってほしいとき、足をバタバタさせたり、泣き叫んだり、嫌だと言ってその場から動かないような、そんな一方通行の表現だったのではないか。親は買う気がないのだから、表現を変えただけでは伝わらない。自分の思いをただただ表現しているだけで、相手がどう思うか、どう受け取るかを置き去りにしていた。そんなあたりまえのことに、はっとさせられたのだ。
例えば日々の中で、母に
「今日の晩ごはん何がいい?」と聞かれても
「なんでもいい。」と答えることがある。
母なりの思いがあっての言葉にもかかわらず、それを受け取ることすらせずに、相手にシャッターを下ろしていたような気がする。そうすると母は少し不機嫌になって、その空気を感じてさらに何かを伝えたいと思わなくなる。そんな悪循環が生まれていた。
もしかしたら、これまで手にしてきた本は、自分の思い通りに人を動かしたり、何かの目的を達成することをコミュニケーションのゴールとしていたのではないか。だから、そこに行き着く手法として、例えば「うなずく」「相手の眉間のあたりを見て話す」といった手段が紹介されているのではないか。
この本『「わかりあえない」を越える』を読み進めると、著者が考えるコミュニケーションの目的がそもそも違う。自分の思いを伝えるためではないのか?そんな根本的な問いかけをされているように私は感じた。それは、今までとは違ったものをもたらしてくれるのではないか。本書を読むという「旅」は、違和感があったコミュニケーションのモヤの中に一筋の光が差すような気がした。
では、著者がいうコミュニケーションの目的とは何か。それは「お互いの幸せに貢献し合うため」だという。
こんな美しい言葉は、果たして果たしてどんな人にも通用するのか。著者のマーシャル・B・ローゼンバーグは紛争解決や、治安の悪化したコミュニテイでの問題解決の活動をしてきた人だ。彼はこう言う。
私も24時間のことを振り返ってみた。会社でほっと一息つける時があるといいなと思い、お菓子を持って行った。みんな喜んでくれたし、お礼にと言って違うお菓子をくれた人がいた。小さなことだけれど、私の中にも相手を思いやる気持ちや貢献したいという思いがあったことがわかり、ホッとした。相手を思いやる気持ちがあること、そしてコミュニケーションにおいて「相手の幸福に貢献する力」が自分にもあるのだと。それを自覚できると、自分にも相手にも思いやりと優しさをもたらしてくれるのではないか。そんな温かみを実感できた。
この考え方をもとに自分なりに意識を変えてみた。母とのやり取りにも少し変化が現れた。母と私の中でそれぞれ生き生きしているものを想像し、以下のように整理してみた。
母「今日何食べたい?」(家族へ貢献したい、美味しいご飯を食べてほしい、だから気にかけている)
私「なんでもいい。」(今は、別のことで忙しい、他のことを考える余裕がない)
私は他の考えたいことを優先させていたのだ。そんな私の思いはあるが、母の思いを想像すると「できる範囲でいいから、母の思いに貢献したい」そんな思いが沸いてきた。そうすると伝える言葉も変わってくる。
「今は仕事中なのなので他のことが少し考えづらいなあ。具体的じゃないけど、なんとなく和風でお肉だと嬉しいけど、どうかな?」
別のことに頭がいっぱいで具体的には考えられないけど、思っていることは伝えられる。
母は「わかった!」と言って料理に取り掛かった。料理をする姿がいつもよりも楽しそうに見えた。夕食の時間になると美味しそうな肉豆腐が食卓に並んでいた。それを食べて「美味しいと」伝える。そこからこれまでとは違った循環が生まれていったような気がする。いつものやりとりで、自分の言葉を変えてみただけ。意識を少し変え、言葉をちょっと変えるだけで、日常の中に楽しさが増した気がする。
少し言葉を変えるだけで、小さな循環が周りだし、それが大きな違いを生む。それこそが、本書の最大の魅力ではないだろうか。