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「東京━短編小説━」

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 東京が残酷な街だとは知っていた。金持ちになるのも、乞食になるのも東京。よく、ばぁばが言っていた。それでも私には東京に対する憧れがあった。日本一の大都会「東京」

 夢も恋も、仕事もプライベートも全て満たしてくれる不思議な街。そんな淡い想いを胸に、私は上京した。自分の夢を叶える為に。

 イラストレーターになる夢があった私は、最初はアシスタントから始められる小さなデザイン会社に入社した。

 ここで基礎を学び、ゆくゆくは一本立ちして独立するのが夢だった。

「なぁ真美、お前いつ売れるの?」

 琥珀色の液体をゆらゆら揺らしながら信也は言った。まるで揺り籠と言う名の中ジョッキだった。

「もう、何回も聞かないでよ。これから実力付けて、いずれは成功して見せるんだから。そう言う信也も売れないバンドマンでしょ?」

「かー、これだからロマンの無い奴は、何もわかってねぇなぁ」

 信也のアルコール臭い大きな溜息と共に、私も共に溜息をついた。と言うか、溜息をつかざるをえなかった。

 今月の生活費はギリギリだった。私の収入と信也の微々たる印税で、二人で暮らしていくのはやっとだった。

 それでも私は、東京と言う夢の街で信也と出逢い、二人で夢を追いかけている日々が好きだった。

 私が独立するか、信也がメジャーデビューするのが先か。よく二人で語りあっていた。この時間が真美にとっては至福の時間だった。

 お金は欲しい。それは誰しもが思う事だろう。でも、お金じゃ買えない大切な物があると教えてくれたのも信也だった。

「そろそろ、帰ろうか。明日、私早いし」

「だな。俺もレコーディングあるし」

 二人は高円寺のガード下にある場末の居酒屋を後にした。

 南阿佐ヶ谷にある小さなアパートが二人の愛の巣だった。決して広くは無い木造アパートは築30年の物件だ。ここで信也と真美は暮らしていた。


「なぁ、真美。俺、酔っちゃた。今スグ真美が欲しい」

「だーめっ!お互い、明日早いんだから、さっさと寝よう」

「そんな固い事言うなよ。なっ?」

 信也からは、さっき食べて来た大好物のレバニラ炒めの匂いがした。

「ニンニク臭いし、嫌だよ」

「そんな固い事言うなよ」

 信也はそう言いながら優しく口づけて来た。

 真美から甘い吐息が漏れる。

 真美はこの瞬間が好きで堪らなかった。誰も知らない東京に来て一年。下北沢にあるライブハウスで信也と出逢ってから真美の生活が一変した。

 都会の喧騒から程よく離れたこのアパートで、
信也と重なる時、真美は孤独から解放される。

「なあ、生でしていい?」

「バカじゃないの。経済力も無いのに」

「なぁ、真美。今日だけだから」

  信也は丁度いいくらいに酔いが回っていた。

 唾とつば、そしてアルコールの匂いがする口づけをしながら真美は言った。

「・・・・・・ちゃんと外に出すって約束する?」

「あたり前だろ、そんなの」

「・・・・・・今日だけだからね」

そして、真美は信也の大きな背中に手を回した。



「え?嘘?本当に?」

「本当に本当!マジだってマジ!」

 スマホ越しに、興奮した信也の声が聞こえた。

 周りはガチャガチャと音が鳴っている。きっとライブハウスからだろう。メンバーの声も興奮していた。

 大手レコードレーベルからのデビューが決まった。信也からはそう告げられた。とにかく興奮している信也をなだめながら真美は言った。

「信也、おめでとう。今日はご馳走だね」

「おう!今そっち行くから。詳しくは帰ってから話すわ」

 真美が時計に目をやると、午後五時を過ぎていた。

 信也はライブハウスのある下北沢から自転車で向かって来る。真美は急いで近くのスーパーに行った。

 今日は信也の大好きなレバニラ炒めを作ってやろう。

 信也の苦労が実を結んだのだ。今日ばかりは、ご馳走にしようと奮発して、ロゼのスパークリングワインも手にした。

 もう少しで信也が帰って来る。最初に、どんな言葉を掛けてやろうか。
真美は想像するだけでワクワクしていた。

帰り道の途中、信也の作った曲を口ずさみ帰路についた。



「もしもし、杉崎真美さんの携帯でお間違い無かったですか?」

 太く野太い男の声がした。
 男は冷たく、無機質に言い放った。

 

 ─信也が死んだ─

 信也は帰り道の途中、猛スピードで交差点に進入して来たトラックに跳ねられたのだった。トラックの信号無視だった。

 真美は絶句した。

「信也さんの着信履歴に、杉崎さんの番号があったので、ご親族の方かと思いまして」

 警察と名乗る男は、更に続けた。

 即死だった。デビューが決まったその報告に、急いで家路に着こうとしていた信也に、トラックが突っ込んでいった。

 真美はテーブルの上に置かれたスパークリングワインのピンク色に目をやった。信也はこの様な液体になったのだ。

もう二度と戻る事は無い。溜まっていた炭酸は、信也の呼吸に合わせるかの様に、プツプツと、静かに、只静かに動いていた。



「真美ちゃん、その何て言ったらいいのか、本当言葉が出てこなくて・・・・・・ゴメン」

 バンドメンバーのベース、ヤスが真美に優しく言葉を発した。真美の頭の中には何も言葉が入って来なかった。

 信也は勘当同然で北海道から上京して来た。葬儀にはバンドメンバー三人と、懇意にしていたライブハウスのオーナー、そして真美が立ち会った。

 慎ましく簡素な式だった。誰も親族の居ない中、信也は荼毘にふされたのだった。

 最後の最後、信也は何を想っていたのだろう。

 デビューが決まった事を、真美に一刻も早く伝えたくて急いでいたに違いない。信也の気持ちを考えると胸が苦しくなる真美だった。

「真美ちゃん、これ少ないけど俺達の気持ち。香典だと思って、受け取ってくれないかな」

真美はヤスに初めて口を開いた。

「ヤス君、ありがとう。これは気持ちとして受け取っておくね。あのさ、聞きたい事があるんだけど」

 ヤスは頭をかきながら目を反らした。

「信也からは、デビューが決まったってだけで、他の事は何一つ聞いていなくて・・・・・・何の曲で決まったの?」

  ヤスは思い出したかの様に、おもむろにベースケースに入ったCDに手をやった。

「この曲なんだけど、真美ちゃん聞いた事無いと思うんだ。もし良かったらラインで送ろうか?」

 真美は深々とお辞儀をして、信也の写真に目をやった。


  ─「東京」─

  信也の作った曲のタイトルだった。真美はヤスから受け取った歌詞カードを手に、曲を再生した。

そこには、信也が上京してきてから、今までの経緯が歌詞になっていた。

 初めての東京、初めての彼女となる真美との出逢い、そしてバンドメンバーに対する感謝。


 歌詞カードがポタポタと音を立てていた。

  真美の大粒の涙だった。歌詞カードは涙で濡れ、文字が滲んでいた。それでも、真美は泣き続けた。

 どんなに泣いても騒いでも、信也はもう二度と帰って来ない。

 真美はあの日、気の抜けたロゼを一人で飲んでいた。思い出すと口の中が、ほんのり酸っぱくなった。

  信也は、この酸っぱさを、もう二度と感じる事も出来ない。それを想うと真美は、この日ひとしきり泣いた。

  涙で濡れた歌詞カードの最後には


「ありがとう、東京」と一言書かれていた。

  真美はアパートの窓から外に目をやった。

 遠くで電車の音がする。

 近くで野良猫の鳴き声がする。

 そしてこの日、珍しく東京の夜空に星が見えた。

 
 真美は大きく空気を吸い込んで、大きく吐いた。

 もうすぐ東京に冬が来る。

  真美の吐き出した吐息は、ゆらゆらと惨酷な東京の街に消えていった。

  それは、あの日のビールの様に、揺り篭の様に
 揺れていた。