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─短編小説─ 「GUILTY」織田由紀夫

勇一はこの日、初めて人を殺した。

一尺寸足らずの柳包丁は血だらけになっている。何度も命乞いをした彼女の百合は、仰向けで横たわっている。

全ての始まりは、百合が放った一言から始まった。

「私、好きな人が出来た」

全身の毛穴がよじれる程に、勇一は身震いした。

勇一だけを見つめてくれていた百合が、どこか遠い異国の地に飛び立ってしまう恐怖にかられた。

その場で叫びそうになった衝動を優一は抑えた。背中に汗が滲む。体中の細胞が悲鳴を上げた。

勇一と百合は学生時代から両想いだった。

初めてのキス、始めてのセックス。

何もかもが新鮮だった。
何もかもが眩しく見えた。

百合は、とても可愛い女性だった。

二重まぶたにチャーミングなホクロ、笑うと細くなる目。

勇一は百合のエクボが大好きだった。

このまま、結婚まで行くと勇一は信じていた。

あれは、去年の秋の事だった。

いつも通り映画を観て、感想を話しあいながらお互いの帰路の分かれ目である中野駅までの道程が、勇一にとっては堪らなく愛おしかった。

「勇一?勇一に大事な話しがあるんだけど」

冬はもうすぐそこまで来ていた。

通りには、クリスマスセールの売り出し品を並べている店がある。

小さい頃に夢見たサンタクロースを、百合との間に生まれてくる筈だった子供に、見せてやる事はもう出来ない。

突然の告白に、勇一は戸惑いを隠せなかった。

ずっと、一緒だと思っていた百合に、好きな人が出来たなんて、想像も出来なかった。

百合は、男の名前は頑なに教えてくれなかった。

「ごめんね。勇一には本当に感謝してる。でも、これからの事を考えると、やっぱり二人では居られない。私、もう勇一にはドキドキしないんだ」

血が逆上している。

静脈も動脈も関係無い程に、勇一の血がうねりを上げていた。

マザーテレサは言った。

「愛」の反対は「無関心」だと。

だが、この日を境に
勇一の「愛」は「憎悪」に変わった。

後は簡単だった。

ドミノ倒しのプラスチックがいとも簡単に音を立てて行くかの様に、勇一の殺意もトクトクと静かに悲鳴を上げた。

人は何故、人を殺してはいけないのか。

互いの正義と正義がぶつかり合う時、
正義は暴力に変わる。

宗教には関心の無い優一だったが、この日を境に優一は悪魔に変わった。

TVでは、殺人事件のニュースが聞こえない日は無い。

愛は、いとも簡単に殺意へと変わる。

数あまたの歴史を紐解いていくと、その最終形態は戦争となる。

勇一の独り善がりな闘いは、
百合の死を持って完結する。

勇一は、百合の会社が終わるのを待ち伏せしていた。

百合の、いつもの帰り道。

時刻は18時丁度だった。

通行人を装い、百合の後ろから狙いを定め、勢いよく優一は走り出し、思い切り包丁を刺した。

百合は今まで見た事の無い、勇一の鬼の様な顔を見た。

コンプライアンスの厳しい今となっては、見る事の出来ない様な1シーンだった。

そもそも、コンプライアンスとは一体何なのだろう。

規律さえ守り、道徳や倫理観を大切にしてこれたのであれば、

人類は此処まで繁栄してはいない。

殺戮の末に築かれた平和。

その安らぎを、優一はいとも簡単に切り裂いた。

辺りを歩く人間は怒号をあげている。

─やめろ─

─何をしているんだ─

─誰か、警察を─

どれも、勇一の耳には届かなかった。

勇一は数えきれないくらい、
百合の体をえぐった。

─非常に悲しい雨が降る─

気象予報士は確かに言っていた。

百合と過ごした、マンダリンオレンジの様な夏が過ぎていく。

とてもほろ苦い、
とても甘酸っぱい。

もう二度と戻れない。

追憶という二文字が、優一の脳裏をよぎった。

サイレンの音が近づいていた。

勇一には、もう一つやり残した事があった。

血だらけになった百合からは、もはや何も聞こえない。

勇一はすぐさま百合のバッグからスマホを抜き出した。

パスキーは暗記していた。

警察が来るのも時間の問題だった。

スマホだけ抜き取ると、勇一は闇の中に消えて行った。

─今すぐ会いたい─

男の名前は大と言った。
ラインの既読がスグに付いた。

─百合?今何処に居るの?何か中野坂上で通り魔事件が起きたみたいだよ。気をつけてね─

勇一は、一人静かに大が来るのを待った。

肌寒い夜だった。

警察の緊急配備が敷かれている。

ここで、捕まる訳にはいかない。もう少しで、勇一の世界は終演を迎える。

大は約束通り、中野駅に現れた。

自分が今から殺される事など知るよしも無い憐れな男だと、勇一は、頬一つ動かさず笑った。

─今、何処?─

大はスマホに耳をあてがった。百合の着信音が通りに響いた。

大は後ろを振り向いた瞬間、勇一に心臓を貫かれた。周囲の人間の叫び声がこだまする。


「止まれ、止まらないと撃つぞ」

いつの間にか警察は、勇一の目の前に来ていた。

勇一はパニックになりながらも、自分の頭の中で百合の言葉を繰り返していた。

─私、勇一と居る時が一番幸せ─

百合の声が遠くで微かに聞こえる。
百合は、もうこの世に居ない。

勇一は柳包丁を腹に押し当てた。
百合の居ない世界に未練は無かった。

「待て!」

ピストルを持った警官が、勇一に近づいて来た。

勇一は警官と対峙した。

「落ち着け。今ここでお前が死んだら、お前の罪はどうなる?お前は二つの命を奪った。お前は生きて、それを償う義務がある」

警官は冷静だった。ピストルに実弾は何発込められていたのかは、勇一は知らない。

ピストルで撃ち抜かれたら、即死だろう。

勇一は混乱する頭の中で、必死に考えた。

優一と警官は、互いに距離を詰めて行った。

そして、いつの間にか雨が降っていた。

百合が流した哀しい雨が降っていた。

優一は、気象予報士の言っていた事を思い出しながら冷たい雨に打たれていた。

優一の涙と共に。


─たった今、入ったニュースです。

本日夜19時頃、中野坂上付近で歩行者が2人刺される殺人事件が起きました。

犯人は通り魔とみられます。

男は30代半ばとみられ、被害者を刺した包丁で、自らも腹を切り自殺した模様です。次のニュースです─

主演も脚本も、監督も務めた優一の「罪」という映画には、ただ真っ黒なエンドロールが流れていた。

真っ黒なエンドロールが。