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学校の先生にならなかった私と、父のこと

小さいときから「学校の先生はいいぞ」「大きくなったら学校の先生になりなさい」と父から言われて育った。
父は小学校の先生だった。
結論から言うと、私が「学校の先生」になる道を選ぶことはなかった。

私にとって、「学校の先生」は聖人であり、暴君であった。

私が出会ってきた「先生」は、みな概して穏やかで、温かくて、良き方に導いてくれる聖人のような存在だった。
私のあらゆる行動を受け止め認めてくれ、時にワクワクするような本を読み聞かせてくれ、チャレンジすることを励ましてくれた。
ありがたいことに良い「先生」との出会いに恵まれた方だと思う。

しかし、同じ「先生」であるはずの父は、家で酒を飲んで大きい声を上げ、母に手を上げることもある、どうしようもない不器用な人だった。
ある朝、見慣れた食卓が無くなっていたことがあった。
それは前の晩、酔いに任せた父が、母のちょっとした一言に対し「気に食わん!」と、チェーンソー(!)で真っ二つにしてしまったから、らしかった。(山の中に住んでいたから、そういった類の道具はひととおり揃っている)
お酒がそうさせたのかもしれないが、いやそれにしたって。である。

これはほんの一例で、酒を飲んだ時の父の暴君ぶりは枚挙にいとまがない。
こんなことが日常茶飯事なのだから、物心ついたときから、父の逆鱗に触れたら最後、何をしでかすか分からないという怖さが常にあった。

普段の父は寡黙な人だ。曲がったことが大嫌い。嘘をつけない人。
いたって真面目でむしろ常識的な人であるとも思う。
その一方でというべきか。だからこそ、というべきか。
思いをため込み、素面ではとても吐き出すことができないのだ。
とにかく酒を飲まないと気持ちをゆるめることができない類の人なのだ。

酒の力を借りて、饒舌に自前の教育論を語ることもあった。
教え子の悲しみに思いをはせて涙することもあった。
子どもたちの真っすぐな瞳に応えようと熱意をたぎらせることもあった。
また成人式の同窓会などに招かれ、教え子たちに囲まれ照れくさそうに頭をかきながら、それぞれの近況に目を細める父の姿は、かつての少年少女たちの心に「ぼくの先生」「わたしの先生」としてしっかり残っていることを証明しているように見えた。
そんなときは、「先生」という仕事のやりがいや、ロマンのようなものを感じないでもなかったが。

とにもかくにも「聖人」と「暴君」が圧倒的に共存する父の姿は、人間の割り切れなさを私に教えてくれた原点である。
そうして、私も大人になった。

***

さまざまな成り行きや出会いに導かれ、私は家を離れ、勉強し、資格を取り、生きづらさを抱える人をサポートすることを自分の仕事とするようになった。
仕事柄、学校にも出入りしている。

子どもや親の心の面を理解し、見立てて、働きかけ支えることが主な仕事だ。
先生の話を聴き、サポートすることも大切な仕事のひとつである。
ちょうどその頃、父は定年よりも8年ほど若い年齢で早期退職した。
あれほど身を削り、家族に当たり散らしながら続けた「学校の先生」をあっさりと辞めた。

今でも。たまに会ってもやはりどこか緊張する。
こういう仕事をしているから分かるのだ。人は簡単には変われない。
父の心の奥底にある暴君はきっと衰えていないのだ。

***

私は学校での仕事が好きだ。
大人になってから出会う「学校の先生」は、聖人でもなく暴君でもない。
私と何ら変わらない、それぞれの悩みがあり、それぞれの希望を持つ職業人であり、そして生活する人である。
仕事を通して、人の良い面を見い出し、人生の割り切れなさに胸を痛め、人が生きる意味を探している。
ある時、仕事の帰り道に、ふと腑に落ちたことがある。
私が「学校の先生」にならなかった意味。
もしかしたら、私はあの頃の父のことを助けたかったのかもしれない、と。
飲まなくてはやりきれなかった若かりし父のこと。
チェーンソーでぶった切ってしまいたかったのは、食卓だけではなかったはずだ。

あの頃の父と学校で出会うことがあったら、どんな風に出会っただろう。
どんなことを尋ね、どんな話を聴かせてもらっただろう。
ともに子どもたちのために働くことができたのではないか。

それは、絶対に打ち明けることのない、私の勝手な淡い妄想である。

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