望月の欠けたる事も無しと思へば
寛仁二年(1018)十月十六日 藤原威子立后
今日、女御藤原威子(ふじわらいし。もしくはたけこ)を以て、皇后に立つる日なり。〈前太政大臣藤原道長の第三女。一家、三人の后を立つるは、未曾有なり。〉・・・太閤(道長)、云はく、「祖(道長)の子(頼道)の禄を得るは、有りや」と。又、怜人(雅楽を奏する人)に禄を給ふ。太閤、下官(藤原実資)を招き呼びて云はく、「和歌を詠まんと欲す。必ず和す(返歌)べし」てへり。答へて云はく、「何ぞ和し奉らざるか」と。又、云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構(前もって準備していたもの)に非ず」てへり。「此の世をば我が世と思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」と。余、申して云はく、「御歌、優美なり。酬答する方無し。満座、只、此の御歌を誦すべし。元稹の菊の詩、居易、和せず。深く賞嘆して、終日、吟詠す」と。諸卿、余の言に饗応し、数度、吟詠す。太閤、和解し、殊に和するを責めず。夜深く、月明し。酔ひを扶けて、各々、退出す。(小右記)
※元稹の菊の詩
唐代の詩人であった元稹と居易(白居易・白楽天)の例を出し,元稹の菊の詩が素晴らしかったので,白居易は返しをせず(和せず)に菊の詩を賞嘆し,終日にわたって元稹の詩を白居易が吟詠したというエピソード
※文中の太字は私が付け足しました。
藤原道長が権力の絶頂の頃に読んだとされるかの有名な「此の世をば我が世と思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」という歌は藤原実資の残した小右記にのみ残されており、藤原道長自身が書き残した御堂関白記には「賜禄の儀の後、私は和歌を詠んだ。人々はこの和歌を詠唱した」としか残されていない。
一般的に言われているこの歌の解釈は全ての権力を手にした藤原道長の傲慢さが現れ出ている歌だといわれ、こんな風に解釈されることが多い。
「この世は私のものも同然だ。私の力は望月(満月)のように何ひとつ欠けていない」
だが最近になっていろいろな説が取り交わされている。というのもこの歌は道長が即興で歌ったものを実資が記憶し、それを日記に書き起こしたものにすぎず、道長の言う此の世の「世」とは「夜」ではないのか、我が世とは我が一代ではないのか、満月は三つの后の座を独占した三人の娘(彰子・妍子・威子)のことではないかという説であり、そういう風に解釈すると「今宵の宴はなんと楽しいことか。三人の娘が帝の后になるという幸運にも恵まれた。」という感じの歌になる。(京都先端科学大学の山本淳子教授による説)
しかし道長自身が「誇りたる歌になむ有る」と言っているとあるので、誇らしげな気持ちを込めて高らかに歌ったのは間違いないだろうと思う。でも、仮に新説をとるならば、「今宵の宴はなんと楽しいことか。娘が三人共后になるという運にも恵まれた。俺ってサイコー」という道長の楽しげな気分が伝わってくるので愉快で面白い。