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シンシア【短編】
うだるような暑さだ。フレッドの視界の先に陽炎が揺らいでいた。その陽炎の向こう側には蒸留所の煙突が揺らいで見えた。全開にした窓から流れ込んでくる風はすこしアルコールのにおいがして、フレッドの身体を冷ますどころかエンジンの熱も一緒に巻き込んで車内を余計に熱くしているような気もした。フレッドはエアコンの壊れた1951年型の茶色のビュイックで、砂埃を巻き上げながらミシシッピの田舎道を北に向かっていた。
「ミシシッピ川のほとりにあるバーに行ってみな。本物のブルースを鳴らす女がいるぜ」
まったく俺もどうかしてる。フレッドはあまりの暑さにうんざりしながらそう呟いて、開いた窓から外に煙草を投げ捨てた。アスファルトに叩きつけられた煙草の吸殻は僅かばかりの火の粉を上げながらフレッドのビュイックのはるか後方に転がっていった。
「ミシシッピ川のほとりにあるバーさ。とにかく行けば分かる。あれは本物のブルースだ」
サムのことを信じないわけじゃないが、丸ごと信じる気にもなれない。その類の話なんてどこにでも転がっている、珍しくもなんともない話だ。だが、そんな本当かどうかも分からない話だけをたよりにニューヨークから一日半もかけてこんな田舎町にやってきたのだ。
「とにかく一度聽いてみな。痺れるなんてもんじゃないぜ。ありゃ本物だ。さっさと契約しないと、どこかのレコード会社にさらわれちまうぞ」
もしサムの言うことが本当ならば、きっとその女はそこそこは金のなる木になるだろうとフレッドは考えた。とはいえブルースのレコードの売上なんてたかが知れているが、それでもその女のビジュアルが良かったらセクシーなドレスを着せてソウルを歌わせたっていい。なんとでもなるさとフレッドは呟いた。それにちっぽけなレコード会社のうだつの上がらないプロデューサーのフレッドにしてみたら、サムの言葉が本当ならば逃すわけにはいかないチャンスかもしれなかった。
ラジオから流れるカントリーミュージックを聴きながらフレッドは、もし待遇が良くなれば半年前に子供を連れて出ていったシンシアともやり直せるかもしれないとぼんやりと考えた。ひざ上丈の白と黒の千鳥格子のスカートにベージュ色のストッキングを履いたシンシアの脚を思い出した。
いや、馬鹿げてるとフレッドはシンシアの妄想を頭の中からうち消した。まったく俺はどうかしてると思いながらイライラしてハンドルを何回か叩いた。この暑さのせいでアタマがイカレてきているんだ。フレッドはイライラしながらチューニングの合わないラジオを消した。
それにしても何もかもが上手くいかない人生だとフレッドは思った。ガキの頃から真面目に日曜日に教会に通えばよかったのかもしれないと一瞬だけ思った。いや、くだらないね。すぐにそう思い直して咥えた煙草に火を点けた。フレッドが吐き出した煙が開いた助手席の窓から外に吸い出されて消えた。
♪♪
しばらく走ると小さな街に入った。道路沿いに小さな店が並んでいるのが見えた。この街で一旦休憩しようと思い、フレッドは道端にクルマを停めた。近くに小さな食堂らしき店があった。クルマから降りてその店を眺めた。壁のペンキが剥げてめくれ上がり、日焼けして黄ばんだカーテンが窓越しに見えた。いまこの瞬間に目の前で倒壊しても不思議じゃないと思わせるようなみすぼらしい店だった。
その向かい側にテラスのある古い家があった。家の前にたむろしていた黒人のガキ共がフレッドを一斉に見つめた。
「やあ坊や、この辺りに毎晩ブルースのライブをやってる店はないかな?」
ひとりの少年が水色のペンキに塗られた小屋のようなみすぼらしい店をアゴで指した。さっきの店だった。
「おじさん、だけどあの店は夜にならないと開かないよ」
そりゃあそうだろう。昼間っからブルースを聴かせるライブハウスなんてニューヨークにもない。フレッドはその少年に小遣いをわたすともう一度その水色の店まで歩いた。
「こんなみすぼらしい小屋みたいな店に本物のブルースを奏でる女がいるだと?本当かよ」
フレッドは煙草に火を点けてクルマに戻ろうとしたが、ん?と立ち止まった。
かすかにハープの音が聴こえた。しかもブルースハープだ。誰か店の裏で吹いているのか。
聴いたこともないスタイルのブルースだ。そのハープの奏でるブルースが気になったフレッドは、店の裏に行きそこにいた女をみて愕然とした。
「何てこった!ガキじゃねえか!」
その少女はまだ五歳ぐらいにみえた。
「おいおいたまげたな、幼稚園に通っているようなガキがこんなブルースを吹くのか」
聴いたこともないスタイルのブルースだ。誰にも似ていない。ニューヨークには、いやメンフィスにだってこんなブルースを奏でるミュージシャンはいない。冴えない男とはいえフレッドは腐ってもレコード会社のプロデューサーだ。業界人の端くれなのだ。ミシシッピどころかアメリカ南部のすべての田舎町を何回も訪れているのだ。
「ありゃ本物だぜ」
フレッドはサムの言葉を思い返していた。
フレッドはしばらくの間そこに立ったまま彼女の吹くブルースに聴き惚れていた。
「こりゃあマディ・ウォータースだって、いや、ジョン・コルトレーンだって目じゃないかもしれない」
ハープの音がやんだ。フレッドはハッと正気に戻った。
「おじさん何か用?」
少女がベンチに腰かけたままフレッドを見上げていた。
「やあお嬢ちゃん、じつは君を捜しに来たんだ」
フレッドの首筋に汗がにじんだ。ミシシッピの暑さのせいじゃない。この女の子が発するオーラのせいだ。俺はこんなガキに気圧されている。フレッドは大きく息を吸って、呼吸を整えた。
「もしかしてレコード会社の人なの?」
もううんざりとでも言いたげな口調で少女が言った。
「ああ、オレの名前はアルフレッド・マケイン。ニューヨークから来たんだ」
「わたしはユウキ・サイト―」
そう言って少女はすっかり見飽きてしまった人形劇でも見るような目でフレッドを見上げた。フレッドは彼女の目から思わず視線をそらしそうになった。
「ちなみに私は日本人よ」
ジャップかよ、畜生め。フレッドはオキナワで味わった地獄を思い出した。大勢の仲間たちがジャップの弾に当たって死んだ。十五年も前のことなのに、今でもたまに思い出してうなされる。あそこで見たのは地獄の中の地獄だった。
「レコード会社の人なら何回も来たわ。でもわたしはそういうのには興味が無いの」
少女はベンチに腰かけたまま足をぶらぶらさせながらそう言った。そしてハープを大切そうに胸の前で抱きかかえるようにして両手で持っていた。ハープはピカピカに磨き上げられていた。さぞ大切にしているんだろうとフレッドは思った。そして、レコーディングには全く興味がないというこの少女とこれからどうやってこの子と交渉しようかと考えた。これだけの腕前だ。しかも大人あしらいが堂に入っている。なめてかかると厄介だとフレッドは気を引き締めた。
「話を聞いてくれるだけでもいいんだ。たのむからおじさんに時間をくれないかな」
「じゃあバービー人形を買ってくれたらステージの後で話を聞いてあげる。あとそれから」
「それから何だい?」
どんな条件を吹っ掛けられるのだろうかとフレッドは緊張した。
「ステージが終わってから、バーボンを奢って。一杯でいいわ」
♪♪♪
フレッドは開演の三十分前にオンボロの店を訪れた。そして正面の一番いい席を陣取った。ステージとはいってもドラムセットを置いたらあとはもう何も置くことができない程度のスペースでしかない。それでもブルースのギターの弾き語りならばなんの問題もないだろう。やがて黒人の男たちがぞろぞろと店に入ってきて、白人のフレッドを場違いな野郎がいるぜという風にじろじろと見た。フレッドはこういう雰囲気には慣れているとはいえ、それでもいつも緊張した。ひとつ間違えたら店の裏で黒人どもから半殺しの目に合うだろう。
一本目のビール瓶が空になり、二本目の煙草を吸い終わった頃に、花柄のワンピースを着た彼女がステージに現れた。店内が静まり返った。フレッドはテープレコーダーの録音ボタンを押した。彼女は大切な宝物を扱うようにしてポケットからハーモニカを取り出すと、そっと口に当てた。
フレッドは言葉を失くし、一切の思考が止まってしまったような気がした。火を点けようとして咥えていた煙草がテーブルの上にポトリと落ちて転がった。なんてこった。小さな声でそう呟くのがやっとだった。
昼間の彼女と全然違う。昼間の彼女も大したもんだったが、いまの彼女はけた外れだ。もしかしてこのガキは、ロバート・ジョンソンのようにどこかの十字路で悪魔と取引をしたのかもしれない。彼女の吹くハープの音が店の壁や窓を震わせ、街を包む凪いだ空気が震えだし、ミシシッピ川の水面を激しく波立たせるかのような、そんな少女の吹くブルースにフレッドは言葉を失っていた。フレッドのグラスを持つ手が震え、氷がカランと鳴った。
フレッドは我に返るとカウンターにある電話機の受話器をひったくるようにして掴み取り、ありったけの小銭を放り込んで上司のアーノルドに電話した。
「おい目を覚ませ!ボンヤリするな!まったくとんでもない少女だよ!すぐに契約しよう、さっさとしないとコロムビアやブルーノートにとられちまうぞ!」
フレッドは注文したストレートのバーボンを受け取るとカウンターにもたれかかり一息で飲み干した。喉の奥を焼きながら胃まで流れ落ちたアルコールが、沸騰したかのように燃え滾る血液に変わり身体の隅々にいきわたった。少女の奏でるブルースがフレッドの五感を揺さぶった。
「バーボンをもう一杯」
きっとこのあと俺は彼女を説得できる。なぜか自信があった。それから明後日にもアーノルドが契約書と小切手を、それからとびきりのバービー人形を携えてここに来るだろう。バービー人形なんて安いものだ。オレのポンコツのビュイックもキャデラックになるかもしれない。
フレッドはグラスの底に残ったバーボンを一気に飲み干した。正気を失いかけている頭の中を少女が奏でるブルースが揺さぶった。ソファに寝そべり微笑むシンシアが現れては消えた。そして彼女が巻き付けてきた脚の太ももの感触と、首元につけた香水の香りがしたような気がした。