就任期間最長の財務大臣、麻生副総裁の想像を絶する歴史
昭和最高の国会議員
今更、このお方の名前を呼ぶのは大変失礼かもしれませんが、
多分昭和の政治家としてある意味最後の方とも言えますよね。
前回のNoteで二階元幹事長について取り上げさせて頂きましたが、
二階氏と同様に独特の節を話し、聴衆を引き寄せる政治家は
もう次の国会には一人もいないでしょう。
その意味で今回は麻生太郎氏について解説していきたいと思います。
幼少期
1940年9月20日、福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれます。
高祖父が大久保利通、祖父が吉田茂、妹が皇族の寬仁親王妃信子と歴史ある
貴族家庭で育ちました。
小学3年生で上京し学習院小学校に編入、その後は学習院系列で中学、高校とエスカレーター式で進み、学習院大学政経学部を卒業します。
留学し麻生産業に入社し、サンパウロやシエラレオネでの外国での経験を務め上げ
1973年に麻生セメントの社長、1976年にオリンピックのクレー射撃、日本代表として出場します。
政界進出
1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に出馬します。
その後2期続け当選するが、1983年の総選挙では共産党に次ぐ、
次点で落選してしまいます。
そしてその次の第38回衆議院選挙は中選挙区で
トップ当選し、以降はずっとトップ当選を果たしています。
中選挙区福岡2区→小選挙区福岡8区
1996年に経済企画庁長官として入閣し、初入閣を果たします。
1999年には長年所属した宏池会を離脱し、河野Gの旗揚げに参加します。
これが今の麻生派のルーツでもあります。
2001年は引責辞任した大臣の後任として再入閣し、
自民党総裁選挙に出馬します。
なおこの時に当選したのは小泉純一郎氏であり、
撤退したのは亀井静香氏と大物勢揃いの総裁選の中で、
挑んだ総裁選挙です。
【結果】合計、議員票、県連票、
小泉純一郎:298、175、123
橋本龍太郎:155 、140、15
麻生太郎:31、31、0
白票:3、0、3
その後発足した小泉政権で政調会長や総務大臣、外務大臣をそれぞれ務め上げ、
安倍内閣でも外務大臣として留任しました。
なお小泉首相が総裁としての任期満了が近づくにつれ、
当時外務大臣の麻生氏は総裁選に立候補したものの、
当時の内閣官房長官である安倍晋三氏に敗れ、
次点となりました。
【結果】合計、議員票、党員票、
安倍晋三:464、267、197
麻生太郎:136 、69、67
谷垣禎一:102、66、36
その後の内閣改造に伴い、麻生氏は幹事長に就任するも
参議院選挙の大敗に伴いわずか1ヶ月で第一次安倍政権は退陣し、
麻生氏は再び総裁選に立候補します。
しかし福田康夫氏の登場により、麻生派を除く各派閥は
福田康夫氏を支持され敗北することとなります。
【結果】合計、議員票、党員票、
福田康夫:330、254、76
麻生太郎:197 、132、65
ただし福田政権も翌年に倒れ、
2008年の自民党総裁選挙に再び立候補します。
4回目の挑戦です!
なおこの時の総裁選は議員票、県連票共に麻生太郎の圧勝でしたが、
総裁選に立候補された方は、石破茂、小池百合子、石原伸晃、與謝野 馨と
大物政治家の方々ですね。
ついに総理大臣となった麻生太郎ですが、
麻生政権で待ち構えるのは、民主党政権誕生前夜の
危機的な状況です。
そうです、リーマンショックです。
凄まじいほどの自民党批判に加え、参議院では与党が過半数を持たず、
第一党は当時小沢一郎率いる民主党であったため、
麻生政権は厳しい状況でした。
結果、麻生政権は2009年の解散に伴い自民党は下野、
民主党政権が誕生し、麻生太郎は首相及び総裁を辞任します。
副総理、副総裁として
自民党総裁選で政権奪還後は、副総理兼財務大臣として
務め、菅官房長官、高村副総裁、甘利大臣とともに
第二次安倍政権の骨格を担います。
7年8ヶ月もの間、安倍政権を支え、
長期政権を果たし、財務大臣としては二回の消費税増税を
果たしつつも、長期政権となったのは
確実に麻生太郎氏のおかげでしょう。
安倍政権・菅政権が終わり、岸田政権では財務大臣から離れ、
党のナンバー2である副総裁に就任し、
党幹部として岸田政権を支えます。
同じく派閥会長で幹事長を務める茂木敏充幹事長と
麻生太郎副総裁、岸田文雄総裁の3頭政治で
約2年以上、岸田政権を支え続けました。
今後、次の総選挙およびどのようなキャリアを歩むのか?注目です。
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