印象的な言葉を、『広島神楽 日本を舞う ―神楽旅―』の本からひろい集めてみました
以前にも紹介させていただいた、広島神楽への情熱がつまった一冊である、『広島神楽 日本を舞う ―神楽旅―』という本があります。
この本には、広島神楽の発展のために奔走する著者の石井誠治さんや、その仲間の方々の活動も描かれています。そのなかには、胸が熱くなるエピソードや言葉がたくさんありますので、それらのなかから、印象的な言葉をひろい集めて、紹介させていただきたいとおもいます。
この本の最初のところに、二人の方から寄せられた序文があるのですが、その2つの序文からして、すでに、広島神楽にたいする熱い想いがつたわってくる文章になっています。
この下の引用文は、この本の冒頭にある、寺本泰輔さん(元中国新聞論説委員・比治山大学名誉教授・NPO法人広島神楽芸術研究所副理事長)による序文からの引用です。
そうした石井氏の多様な活動を支えているのは「神楽は創造的伝承である」という信念であろう。神楽もそうだが、いわゆる、民間伝承が陥りやすい「古き」をそのまま受け継ぐ「伝承的伝承」とは違った地平を歩み、時代の要請に応えようとする「信念」であろう。
そうした方針が、衝撃的ともいえる「スーパー神楽」を誕生させ、「ホール神楽」を定着させたのである。それらによってどれほど神楽が一般化したことか。時代に相応した神楽として、大衆に受け入れられたのである。
〔中略〕
今では国内各地からの公演要請のほか、海外での舞台も珍しいことではなくなってきたほどである。
それにも増して私は、石井氏が神楽のゆかりの地を探訪した次の第三部に最も強い関心を持った。そこには、広島神楽の主な演目ゆかりの舞台となった土地を実際に訪れて、カメラに収め、レポートしているからである。神楽のストーリーは伝説であったり、作者がいて作られたものであっても、そこに登場する山や川、地名は実在のケースが少なくない。石井氏は時間をかけて、そこを探し出して、自分の足で丁寧に確認しているのである。そのことが神楽と大衆との間を、「今日の視点」でより近づけているのである。
〔中略〕
「滝夜叉姫」も「羅生門」「オロチ」など、実に丹念に踏査している。
そうした石井氏の努力が、この「神楽旅」を重要な一書にしている。
また、この下の引用文は、この本の冒頭にある、新谷尚紀さん(國學院大学教授・国立歴史民俗博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授)による、もうひとつの序文からの引用です。
二十年以上も前から待ちこがれていた本がいまやっと出ました。石井誠治さんのこの本です。私がうれしいというだけでなく、神楽の歴史の上で実はたいへん意味のある本なのです。
撮影やインタビューのとき、石井さんという存在にたいへんな衝撃を受けました。芸石神楽競演大会での失望と絶望の淵に沈んでいた中川戸神楽団に対して、突拍子もない提案をした人でした。突拍子もない内容の神楽を創った中川戸神楽団の羽原博明さんや神楽面師の管沢良典さんたちに対して、広島市中区の一流文化施設アステールプラザでの神楽の有料舞台公演という突拍子もない企画を提案する石井さんがそこにいたのです。歴史を変えるのはこういう人なんだ、と思いました。
そして第三期が、平成初期から起こった中川戸神楽団を先駆けとする「スーパー神楽」の誕生です。その新たな神楽が、今日まで約三十年間、さらなる成長と変動を経てきているのです。それを牽引してきているのが石井誠治さんなのです。「厳島」など新たな「創作神楽」への挑戦、そして広島市内での「ホール神楽」の普及へ、という動きを生み出しているその牽引者でもあります。広島市域をも巻き込む一つの神楽文化運動ともいえるような展開をみせており、もう「芸北神楽」という名前を超えて、「広島神楽」へと生まれ変わってきているのです。いや、二〇〇三年のロシアのサンクトペテルブルグでの公演にみるように、この広島県北の芸北地方の農村部はもちろん、広島市域という都市部や、ひいては日本国内をも超えて、世界へと羽ばたく「広島神楽」へとなってきているのです。
石井さんの卓見は、「総合芸術としての神楽」、「伝承の中の創造・創造の中の伝承」という言葉に凝縮されています。約三十年間の神楽の歴史とともに歩んだ石井さんに、当事者としてどうしても書き残しておいてもらわなければいけなかった本なのです。
第三部は、石井さんのまさに石井さんらしい構成となっています。「広島神楽」の演目の舞台となっているそれぞれの土地へ実際に行ってみて、取材しようというのです。石井さんの神楽舞台での演出の特徴の一つが、上演の前に独自の解説ナレーションを入れるという点ですが、そこには研究と勉強を絶やさずに神楽の伝承世界を究めようという姿勢があります。
〔中略〕
それぞれの神楽の演目にゆかりの深い伝説の現地を、東北から九州まで次々と訪れています。
最後にもう一度、ここに書かせていただきます。この本は「芸北神楽」から「広島神楽」が生まれた、その約三十年の歴史を臨場感豊かに書き記した貴重な歴史書でもあり、伝承から創造へというこれからの神楽の未来へ向けてのさらなる出発の書でもあります。ゲラの段階で読ませてもらい、あまりにおもしろいので一気に読んでしまいました。そして、爽快な読後感が残っています。
この上の2つの序文をお書きになったお二人もまた、この本の著者である石井誠治さんの広島神楽への情熱と、その活動を称賛されています。
このように、石井さんは、「スーパー神楽」の生みの親でもあり、プロデューサーや、プランナー、プロモーターとして、また、研究者や解説者として、広島神楽の発展に大きく貢献してこられた方です。
ここからは、この本のなかの石井さんのお言葉や、その仲間の方々のお言葉のなかから、印象的な言葉をいくつか紹介したいとおもいます。
当時、千代田町は『田園と文化の町づくり』を掲げて町づくりを進めており、私はこの町のテーマを具体的にし、発展させることが職務であると考えました。公民館主事をはじめ、行政の職員はすべて「町づくり・人づくりのプロデューサーとなって『行政のプロ』と言われる」と自覚したのもこの頃です。〔4ページ1段目より〕
中央公民館での文化事業を繰り返す中、当時の町長は「文化じゃメシが食えん。文化活動は適当にしとけー」という政策でした。しかし逆に「文化でメシが食える人を地域が育てる」というのは出来ないものだろうかと思うようになりました。〔5ページより〕
出会ってから約一年が過ぎる頃ついに、管沢さんは『千代田にいこう』そう大きな決断をしてくれました。
はじめて会った時「わしは神楽面師になることが子どもの頃からの夢だった。三十歳近くなってその夢が実現した。どんなに貧乏してもこのふるさとで一生神楽面を作り続ける。結婚はもちろん考えていない」と言い切ったのでしたが、「千代田へ行けば何か夢がもっと膨らみそうなので行くことに決めた」と言ってくれたのでした。〔8~9ページより〕
ちなみに、この上の引用文のなかで、悲壮とも言える決意を胸に、神楽面を作り続ける人生を選ばれた管沢さんは、神楽面師として生きていく夢を叶えられただけでなく、その後、ご結婚もされて、3人の子どもさんにも恵まれていらっしゃいます。
この下の引用文は、新しい神楽を生み出そうと、果敢に挑戦したがゆえに、神楽の大会の場において、審査員にまったく評価されず、暗い雰囲気につつまれていた中川戸神楽団の方々を励まし、奮い立たせるために、石井さんが語られた言葉です。
その時、思わず私は「あんたらー四人の審査員の為に神楽をしたんかー。お客さんはあんなに感動して、大きな拍手をくれたではないか」
「郷土芸能として伝統を大事にする神楽大会で、これまで観たこともない演出や舞台効果を取り入れた神楽をやって、これを優勝させたら審査員は笑われると恐れたのではないか」
「中川戸神楽団は、伝統芸能『神楽』を変革させて舞台芸術『神楽』を仕上げた」
「中川戸神楽団には審査員はいらない。感動してくれる観客がいればいい。そんな神楽団へ生まれ変わるときが来た」
こんなことを一気に話しました。〔15ページ1段目より〕
『無から有をつくる』言葉は簡単でも、何の保証もない中、これまで誰もやったことのない事業に取り組む事は、今思うと冒険というより蛮行に近いものだったのです。『やる勇気だけが頼り』だったように思います。そして、これをしなければいつまでたっても『神楽は田舎もんの娯楽』でしかないという危機感が後押ししました。〔17ページ2段目より〕
ちなみに、石井さんが代表取締役をされている株式会社ゼロワンさんの「ゼロワン」という名称には、この上の引用文のなかにもある、「無から有を生む」という石井さんの願いがこめられているようです。
神楽を『スーパー神楽』と題して自主公演したのは、農村がいつの時代にも都会に追随する受け身的な生き方をするのではないという自覚と、当時の暗いイメージ等々すべてを含めて、打ち破る事業に仕立て上げたかったのです。『神楽しかないマチ』を『神楽があるマチ』にしたかったのです。
この郷土に生きる若者すべてが、神楽によって大自然の懐に暮らす、すばらしさと誇りを持ってほしかったのです。〔24ページより〕
そして、2010年には、「広島県の風土・歴史を象徴するような神楽をつくる」というテーマのもとに、『厳島』と題された創作神楽があたらしく生みだされました。この『厳島』は、世界遺産でもあり、広島の宝である厳島を現代に遺してくれた、広島が誇る英雄・平清盛を主人公とした物語です。
その創作神楽『厳島』を実現するにあたっては、神楽団の方々や、脚本家さん、神楽面師さん、神楽衣装師さん、神楽採物師さん、神楽かつら師さんなど、各分野の専門家の方々が、これまで経験したことのない難問にぶつかりながらも、それらを乗り越えて、あたらしい神楽を一歩ずつ作り上げていかれました。
この下の引用文は、そうした専門家の方々のなかのひとりである、神楽採物師さんが、当時の様子をふりかえって語られたお言葉です。
児玉 敏之 氏(神楽採物 神楽工房こだま)の話
神楽の採物を作りはじめて八年。平清盛の刀を造ることになった時、八年目でこんな大きなチャンスがやって来るとは思いませんでした。さっそく、厳島神社国宝展の冊子の中に収録された刀の写真を参考に試行錯誤の日々がはじまりました。
複雑な金具の形を成形して取り付けるのにボンド一つ強弱色々なものを探して実験しながら使い、これまでの経験ではない手間のかかる仕事になりました。中でも、刀の表面全体に一枚の金箔を張るのは息をとめての作業で、この年になって初めての作業でした。
出来上がって、清盛が舞台でその刀を持って舞う姿に涙が出ました。刀一本に私の人生をかけた思いがしました。〔51ページ1段目より〕
この下の引用文は、この本のおわりのところに記されている、石井さんのお言葉です。
『何か見つけて千代田らしい文化を育てないとこのマチはつぶれる』と思いながら様々な活動を重ねましたが、やはり根底には神楽があったのです。
演劇を観ることによって、神楽を舞台芸術に高めたらと思う。日々自己否定しながら成長する画家や工芸家の作品展を運営することによって、郷土の伝統芸能も時代と社会環境変化に合わせて進化しないといけない。昔を真似る(先祖がえりすること)だけでは魅力のないものになってしまうと『保存的伝承から創造的伝承』を気づかせてもらったのです。〔177~178ページより〕
ちなみに、この上の引用文のなかの、「保存的伝承から創造的伝承」という石井さんの考え方は、この本の41ページに記されている、石井さんが「オロチ」と題されたあたらしい演目を創作されたときのエピソードにも、あらわれているような気がします。
その「オロチ」という演目は、広島県が主催する芸術祭において、「新たな広島文化を発信する」ことを目的として、あたらしく創作された演目でした。この演目「オロチ」は、神楽とオーケストラのコラボレーションという、初のこころみでもありました。
そのプロジェクトにおいて、石井さんは、この演目の企画・構成・演出を担当されました。この「オロチ」の物語をつくるにあたって、石井さんは、従来のような、単純な「怪物退治」でおわらせるのではなく、そこに独自の新説をくわえて、より大きな視点からの、「水の流れ、大自然の理」を表現し、そうして循環する「生命の営み」を讃える「儀礼の舞」として、この演目を位置づけられました。
こうしたところにも、伝統を重んじるだけではなく、そこにあたらしい風をふきこむことで、神楽を進化させていく、という石井さんの姿勢があらわれているようです。
このように、「オロチ」の物語を創作されたときのエピソードにも、「保存的伝承から創造的伝承」という石井さんの考え方があらわれているようにかんじます。
この本には、このほかにも、神楽を発展・普及させていこうと奔走する石井さんが直面された、数々の苦い経験なども記されていて、胸が熱くなります。
また、ここまでご紹介してきたのは、この本のなかの、第一部で語られているお話の一部です。
ですが、このほかにも、広島神楽の歴史がつづられている第二部や、石井さんが、神楽の演目にゆかりがある日本全国の土地を自分の足でめぐり、自分の目で見て取材された情報をもとにして書かれた、広島神楽の数々の演目のあらすじと解説などが、この本には記されています。
この本、『広島神楽 日本を舞う ―神楽旅―』は、この下のURLのページから入手することができます。
広島神楽 日本を舞う-神楽旅-石井誠治 著
https://www.npo-kagura.jp/book/20180701-book.html
ぼくは、「鬼シンポジウム in ふくちやま2019」のイベントにおいて上演された、北広島町の旭神楽団さんによる広島神楽の公演で、はじめて広島神楽を見ました。そして、その華やかさや、舞の動きのおもしろさ、太鼓囃子の躍動感などなど、その魅力に圧倒されました。
あなたも、もし興味があれば、この本をとおして、広島神楽の魅力にふれてみていただければとおもいます。
(参考)
「鬼シンポジウム in ふくちやま2019」のイベント紹介レポート(世界鬼学会設立25周年記念イベント)
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
たくさんの人が、目を輝かせて生きている社会は、きっと、いい社会なのだろうとおもいます。 https://wisdommingle.com/memorandum-of-intent/