【小説】月は綺麗ですね
彼は、都市部の雑踏を好んでいる。誰も自分のことを知っている人がいない人ごみの中に紛れて、誰でもない自分になれる、あの時間を好んで街中を歩いている。
今日も駅前では、ストリートミュージシャンが歌っている。テレビCMで流れていたような気がする、あの曲。タイトルまでは知らない。サビまできてようやく、あの曲だったのかと思い出す程度の興味しか抱いていないからだ。日によって、ダンスパフォーマーだったりマジシャンだったりする。
ここは、底に穴があいたボウルのような街だと思う。数えきれないほどの夢や希望をどんどん受け入れて、どんなに入れても決して満杯にはならない。幾人かは、底にあいた穴から落ちていくためだ。諦めたのか、あるいは。
すれ違ったあのサラリーマンや、あの女子高生に、一人一人違う人生があるのだと気づいてぞっとしたことがある。でも皆、互いに興味を抱かない。それが心地よくもあった。誰も、少年が目深に被ったフードの中の猫の耳に気が付かないから。
喧騒から離れて、住宅街に入る。少年の目的地は、少し奥に入ったところの神社。たどり着くころには、夜も深まっていた。
石段を跳ねるように駆け上がって、色あせた鳥居をくぐる。すでに先客がいたようで、薄暗い中にぼんやりと背の高い人影が見えた。腰まで届こうかというほど長い白髪を持った、長身痩躯の男がいる。紺色のロングカーディガンをさらりと羽織ったその姿はまるでモデルのようなのに、頭に付けた狐面だけが異質だった。
「いんのかよ」
やや不満げな少年に、男が答えた。
「いんのかよとはなんだ、失礼な」
男は、狐の面を顔の正面に持ってくる。面を顔に当てると、辺りがにわかに白い煙に包まれて、少年は思わず顔を伏せた。
「ああ、ようやく羽を伸ばせるな」
からりとした声が聞こえて少年が顔を上げる。男の頭には獣の耳が生え、さらに白くふわふわとしたしっぽまで生えている。服装も、洋服から袴になっていた。
「由良の変化の方法、どうにかならないのかよ。毎回煙いんだけど」
軽くせき込む少年を横目に、
「仕方あるまい。そんなことより、るな」
少年は、由良を見上げた。るなとは少年の名前だった。
「耳は隠せないのか」
由良が、るなのフードの中を指さす。るなはきまり悪そうにフードを外すと、布地に押さえつけられていた猫の耳がぴこんと飛び出した。
「べ、別にしっぽは隠せてるんだからいいだろ。耳くらいなら、バレてもちょっと変な人くらいで済むし」
由良は呆れたようにため息をつき、肩をすくめる。
「まったく危機感がないな。化け猫でも人の子に飼われるとこうなるのか」
「おれの生活に口出してくんなし。それよりほら、行かないとだろ」
るなは神社の本殿の奥に向かって駆け出す。満月が、二人分の影を映し出していた。由良も、るなに続いて歩き始める。
地面に赤い塗料で丸が描かれている。るなが丸の中心を踏めば、月が昼間の太陽よりも強い光を放った。眩しさにこらえて目を開けると、目の前に真っ白な鳥居が現れる。鳥居を潜ると、暗闇の中に放り込まれた。前も後ろもない空間だが、どちらに進めばいいのかは本能的に理解できる。しばらく歩いて、やがて一点の光を見つけた。光に手を伸ばして、また別の空間に投げ出される。
深く濃い藍色の空に、赤い月が浮かんでいる。頭に角を生やした大柄な男や、トカゲのような尾を持った少女が行きかう。ここがるなの故郷だった。あの神社は、ちょうど人間の世界と妖怪の世界の境目にあって、満月の夜にだけ行き来できるようになっていた。
大通りは道も綺麗に舗装されているし、瓦屋根の木造の建物が並ぶさまは、人間の世界とそう変わらない。しかしあたりを照らすのは電灯ではなく青白い鬼火で、はるか遠くには先のとがった大きな岩山がいくつもそびえたっている。
(いつ来ても、変わんねえなあ)
るなはぼんやりとそう思っていると、ぽんと肩をたたかれる。由良だ。
「はあ……分かってるって」
「父上に、3か月に一度顔を見せるように言われているんだろう」
仕方なくと言った風に頷くるな。今から向かうべきは実家だ。行くところがあると言う由良と別れ、るなは歩みを進める。
大通りを突っ切って進むと現れる石の階段を上がって、分岐しているその先の階段をさらに上る。30分ほど登り続けただろうか。白い鳥居の下に立てば、あとは勝手に実家に連れて行ってくれる。もっと早い段階でこの仕組みを使ってほしいものだと、るなは帰省するたびに思っていた。
るなの実家は、化け猫の本家と言われる家だった。広い屋敷の、これまた立派な門の前で待ち構えてた女中によって、あれよあれよという間に父親の部屋へと連れていかれる。「坊ちゃまがお帰りになりましたよー!」と、屋敷中に響き渡る声で報告されて、るなはきまり悪そうに眉を歪める。
父の訪れを、るなは正座して待っていた。障子の向こうから、赤い月明かりが差す。少しして、部屋に父親が入ってきた。るなは咄嗟に頭を下げる。幼いころからの習慣だった。
「息災か、佳宵(かしょう)」
佳宵とは、るなの本当の名前である。
「はい」
頭を下げたまま答えると、
「顔を上げなさい」
るなが頭を持ち上げると、以前あった時と変わらない父の姿がそこにあった。白髭をたくわえた老人は、息子の姿を見やると、
「変わりはないようだな」
父親は最初から、るなが人間の世界で暮らすことに良い顔をしなかった。こちら側に何の不満があるのかと。
正直、るな自身、別に深い理由があるわけではなかった。しいて言うなら、誰でもない誰かになりたかった。
こちら側で、るなの家は知れ渡っている。もちろん、るなの「佳宵」という本来の名も、顔もすべて。それが窮屈で仕方なくて、ある満月の夜に人間の住む世界へ飛び出した。1年前のことだ。
るなは初めて、人間の作り上げた都市というものに触れた。まだ化けることに慣れていなくて、耳は実家にあった羽織を頭からかぶって隠すという奇妙な出で立ちではあったが、誰も気に留めずるなの横を通り過ぎて行った。
あるとき、猫の姿のままでいたら、ある一人の少女がるなの前で立ち止まった。首輪のないるなを、野良猫だと思ったのだろう。少女は彼を家まで連れて帰り、名前を与えた。それが「るな」である。
人間の家は存外居心地が良くて、結局るなはそのまま少女の家に居ついた。それを、どこからか聞きつけたのか知り合い――あの狐の男だ――由良が見つけ、実家に連れ戻したのである。
こっぴどく父親から叱られたが、結局、3ヶ月に一度顔を見せるということで話がまとまった。
「あちら側のものを食べていた以上、こちら側に永遠にとどめていることもできまい」
というのが、父の言葉であった。異界のものを食べると戻ってこられないというルールを、るなはぼんやりと知ってはいたが、人間の世界にもあてはまるのかと驚いたものだ。
「何がお前を引き付けるのだ」
父親が尋ねる。
「何が楽しくて、人の世に住む」
さらに言葉を継ぐ。るなは、少し間をおいて、こう答えた。
「変化するからです」
「変化?」
るなは首を縦に振ると、
「人間の世界は、絶えず変わっていきます」
立て続けに建設される新しいビル。常に新しい、知らないものであふれる世界。知らない人と、わずかに人生がすれ違い、時に触れ合う瞬間を、るなは愛おしいと思っていた。
「変わらぬ我々の世界を、お前は嫌うか」
父親が、再び問う。るなは、首を横に振った。
「そんなことはありません」
嫌ってはいないし、寧ろ好きだとさえ言える。変わらないからこそ、良いものもあるから。
「変化を、見届けていたいんです」
自分は、希望と絶望がないまぜになった、あのボウルに放り込まれた者の一人だと思うから。
人間の世界の方が、るなにとっては余程奇妙だ。根を張らずとも枝が伸び、かりそめの花が咲く世界。その散り際を、誰も気に留めない。るなはそれを、特段冷たいとも思わなかった。誰もが「誰か」になるためには、きっと必要なことなんだろう。
「そうか」
諦めとも、感心とも取れる声で、父親は言った。
◇
実家を出て、るなは空を見上げた。赤い月が輝いている。人間の世界に初めて行ったあの日、金色の月明かりに驚いたものだ。3ヶ月ぶりに見た赤い月影は、目に突き刺さるようだった。
「……月は綺麗なんだよな」
るなはぽつりと呟いた。冷えた空気を吸い込むと、いつのまにか表に出ていたしっぽがピンと伸びて、るなは一人身震いするのだった。