【小説】はばたいてめぐる

 はちみつ色の、肩くらいの長さの髪が、ふわふわと揺れる。背中に生えた、紫色の蝶の翅が、わずかに動いた。彼女は望遠鏡を覗き込んでいる。
「プシュケ。今日は、何匹見える?」
「三匹。少ないよ」
レンズに目をぴったりとくっつけたまま、プシュケが僕の問いかけに答えた。

 ドーム型の屋根にぽっかりと空いた穴。望遠鏡がまっすぐ伸びる先には、紫色の空が広がっている。きらきらと頭上で輝いているのは、星ではなくて――
「もうすぐここに降りてくるよ、みんなね」
プシュケがレンズから目を離して、僕の方に振り返る。望遠鏡は高い位置にあって、前に備え付けられた、これまた背の高い椅子に座らなければ届かない。プシュケは椅子から飛び降りて、音もなく床に着地する。
「籠を持ってきて」
プシュケがそう言ったので、僕は観測部屋を出る。隣の部屋は、プシュケの仕事道具が入った倉庫だ。倉庫の奥から、金色の四角い籠を持ってきた。今日は三匹現れたのだから、籠も三つ必要だ。籠を重ねて、抱えるようにして持ち出す。慎重に階段を下りて、家を出た。

 見渡す限りの草原。紫色だった空は、いつしか黒に染まっている。
「ほら」
プシュケが上空を指さす。小さな光が下りてくるのが見えた。それは、半透明で淡く光る蝶。籠の上の蓋を開けて、プシュケに手渡した。プシュケが頭上に籠を掲げれば、蝶は籠の中に入っていく。まるで、最初からそこが居場所だったかのように。
 三匹の蝶がすべて籠に収まったのを確かめて、プシュケはしっかりと蓋を締めて鍵をかけた。それを、プシュケは両手に、僕は片手に持って、草原を進んでいく。

 僕たちの家が見えなくなるくらい歩いてようやく、地面が不自然に途切れたその地点に辿り着く。すっぱりと、まるでナイフで切ってしまったように、「そこ」から先に草原は存在しない。真っ黒で、足元にも夜空があるみたいだ。プシュケは以前、そこは河なのだと教えてくれた。海のようにもみえるけれど、ともかくそこは河なのだと。
 プシュケは、真っ黒な河に籠を浮かべた。手を離すと、一つ目の籠が、ゆっくりと流されていく。二つ目と続いて、僕は片手に持っていた三つ目の籠をプシュケに手渡した。とうとう、籠はすべて流されていく。暗闇に、ただ蝶だけが浮き上がるように光っていた。

 家に戻る途中で、僕の前を歩くプシュケが僕に尋ねた。
「きみ、いつまでここにいるつもりなの」
「いつって、どういうこと」
僕は聞き返した。プシュケは急に立ち止まると、僕の方を振り返って、
「ここは、魂がカミサマのところへ行くための場所って、前にも言ったよ。それで、もしきみが望むなら、方法を考えようって何回も言ってる」

 あの日、僕の人生は確かに終わった。でもそういうわけだか、僕は僕のままでここに落ちてきたのだ。
 プシュケも最初は目を丸くしていた。そして彼女は、自分は蝶の形になった魂を送り届ける仕事をしていると説明してくれた。金の籠に蝶を入れて川に流す方法も、教えてくれた。
 イチかバチか、僕はあの真っ黒な河に飛び込んだことがある。でも何も起きなくて、気が付くと草原で寝ていたのだ。
 プシュケは観念したのか、僕をあの家に置いてくれることになった。そして今、僕は彼女の仕事を手伝っている。

「カミサマも、受け取り拒否してるんじゃないかな。僕のこと」
いつだったか、プシュケにそう言ったことがある。何日たっても、蝶の籠を抱えてあの河に入っても、僕はプシュケの言う「カミサマ」のところには行けなかった。
 僕の言葉を聞いて、プシュケは少し、悲しそうな顔をした。

「僕は君と、もう少し一緒に居たい」
僕がそう言えば、プシュケは驚いて、本当にそれでいいのと念押ししてくる。
「少なくとも、あの河の先に行く方法が見つからないうちはここにいるから」
僕の言葉に、プシュケはそうだねと同意する。その方法とやらは、皆目見当がつかないけれど。

 家に戻って、僕はプシュケがあてがってくれた部屋に戻る。ここに来てから、不思議とお腹が空かないし、何も食べなくても平気みたいだった。さすが死後の世界、と言うべきなのか。

 次の日の朝、起きると、僕の背中に翅が生えていた。プシュケのものと同じ蝶の翅だけれど、彼女のものに比べると随分と小さい。プシュケにそのことを報告すると、凍り付いたように動きを止めてしまう。
「もしかしたら、僕も蝶の姿になるのかもしれないね」
僕がつとめて明るく言うと、プシュケは、
「そうね、そうかもしれないね」
あの魂たちと同じ姿になる予兆という可能性はないだろうか?そして、もしそうなったら、僕は彼らと同じように、カミサマの元へ行くのだろうか。

「プシュケは、どうして僕にカミサマの元へ行ってほしいんだい」
「どうして、って……。一人は寂しいからだよ」
「プシュケがここにいるじゃないか」
「それはそうだけど」
問答が続いて、彼女は黙ってしまった。

 そういえば僕は、プシュケがなぜここにいるのか知らなかった。それだけじゃない。プシュケは「何」なのだろうか?

 僕の翅は、日増しに大きくなっていく。そして、それに連動するように、プシュケの姿が、日ごと透けていくようになった。触れれば確かにそこにいることは分かるのに、体の向こうの景色が透けて見えるのだ。僕は動揺した。それでもプシュケは、まだ平気だからと言い続けた。
 そして、プシュケの姿が半透明になったころ、彼女は意を決したように口を開いた。プシュケは僕に、籠を一つ持ってきてと指示した。言われた通りに籠を倉庫から持ってくると、プシュケは僕を外に連れ出す。
「きみに、言わなきゃいけないことがある」
プシュケが話した内容は、こうだ。

 この仕事は、最初からプシュケがしていたわけではない。プシュケもまた、ここに蝶の姿ではなく人のままでやってきた。そこにいたのが、ここでは仮に「先代」としておこうか。先代の、魂を送る役目を持つ人だった。彼もまた、背中に蝶の翅を持っていた。プシュケは先代の勧めで、仕事を手伝い始めた。
 ある日、プシュケの背中に、翅が生え始めた。それと同時に、先代の体が透けていくようになった。先代はプシュケに説明した。プシュケの翅が完全に生え切ったら、自分は蝶の姿に変わる。それが「代替わり」の合図だ。お前はどうか、私の魂をあの金の籠に入れて送ってくれ。そんな風に言われたという。

「私の一人での初仕事は、その人を送ることだった」
そしてプシュケは、僕がここに来たときに悟ったという。僕が、次にこの役目を負う人間なのだと。
「あの人を送った日、すごく寂しかった。だからきみが来てくれたときは嬉しかったよ。でも同時にすごく辛かったんだ。私はいつか、きみを置いていってしまうから」
プシュケがなんとか僕を送ろうとしていたのは、そういう理由だった。僕が先に行けば、寂しい思いをするのは自分だけで済むからだ、と。

 どうして先代や、プシュケや、僕が選ばれたのかはわからない。それこそ、カミサマの悪戯というやつかもしれない。

「プシュケ」
僕は彼女の手を取った。今にも消えてしまいそうなその手は、内側から金色の光を放っている。
「大丈夫だよ。たどり着く先は、皆同じなんだろう」
背中が熱を持っているのが分かる。
「先に行って、待っていてくれ」
プシュケは頷いた。
「ありがとう。私、きみのこと――」
彼女の頬を伝う涙を、僕が指でそっと拭った刹那。プシュケの体はいっとう強い光を放って、蝶の姿に変わる。僕の両の掌に収まってしまうくらいの、金色の蝶。
 僕は、籠の蓋を開けた。蝶となったプシュケは、籠の中にするりと入っていく。蓋を閉めて、僕は籠を抱えて歩き出した。

 河の前までやってくる。僕は籠の格子の隙間から、プシュケの様子を除いた。
「君のことが好きだったよ」
もう、答えは聞けないけれど、いつかは。

 僕は大きく息を吸い込んで、籠を川面に浮かべる。またあとで、とつぶやいて、手を離した。籠は淡く光りながら、ゆっくりと流されていく。プシュケが完全に見えなくなる瞬間まで、僕はそこにいた。

 彼女のいない、空っぽの家に戻って、僕は声を上げて泣いた。夜が明け始め、空は紫に変じていく。観測部屋で望遠鏡を覗けば、ゆっくりと蝶たちが下りてくる。蝶の数と同じだけ、籠を運び出す。またすぐに夜がやってくる。籠の中に蝶を入れて、河に流す。長い時間、プシュケも同じようにここで一人の時間を過ごしていたのだ。

 暗闇の中で、僕の翅は、プシュケと同じ色に煌めいていた。