子どもの自分、大人の自分
1人の大人の中には、大人の自分と子どもの自分が同居している。使い古されたたとえ話かもしれないけれど、赤ちゃんと共に時間を過ごす今、実感を持って感じている。ごくごく抽象的な話だけど、最近わたしが考えていることを書いてみたい。
拘束されたくない。でも、ひとりぼっちにされたくない。オムツをはきたくない。靴下もズボンもはきたくない。ご飯を食べながらボール遊びもしたい。コップのお茶に指を入れてちゃぷちゃぷしたい。口の中を拭かないでほしい。窓ガラスをなめたい。ジョイントマットの端をはがしたい。
1歳3ヶ月の息子から感じる要望の数々。狙いすましたかのように、やらないでほしいことをやりたがり、やってほしいことをしないのは、もはや生命の不思議。
彼はまだ、忖度も計算高さも持ち合わせていないから、ごくごくストレートに、やりたいことだけをしようとする。わたしの顔色をうかがって対応を変えたり、要求を通すためにゴマすりしたりすることはない。
そんな彼をみていると、わたしの中にも同じ種類の子どもがいることを、はっきりと意識する。でも彼女は息子のように、やりたいことを全力でやろうとはしない。
上目遣いでちらりと大人の顔をうかがい、「怒られるから」という基準だけで行動を決める。怒られそうなことはしない。怒られる直前に、面倒なことをすませる。
彼女にとやかく言う人は現実にはいないけれど、大人の自分が親の役目を引き継いでいる。大人の自分は驚くほどの横暴さで、子どもの自分を押さえつけ、もはや彼女は委縮しきっている。
やりたいことだけをやりたい放題しようとしていた赤ちゃんは、やがてまわりの大人に言われたことを守って、社会の一員になりはじめる。その過程で、やりたい放題だった子どもの自分は戒められる。まわりの大人の声を自分の中に取り込んで、もともとの自分とは別人格の「大人の自分」がつくられる。
大事なのはバランスなのだ。大人の言うルールを守り、まわりと調和して暮らせるようになることは、人間社会で生きるうえで必要だ。でも、その人がその人らしく生きる道はルールの中には存在しないし、子どもの自分しか知らない。
人間社会に適応するための学習過程はどうしても、本来の自分の欲望を否定する形になる。とはいえ、ときどきは安心してのびのび羽を伸ばせる機会がなければ、大人になるころには生まれたときにやりたかったことなんて全て忘れてしまう。まわりに求められるように働くことはできるけれど、何のために生きているのかわからなくなってしまう。
ルールを守ることのできる大人の自分は大切だけど、同じぐらいかそれ以上に、子どもの自分を守ることも大切なのだ。やりたいことへの熱意を持つのは、その無邪気さだけなのだから。
わたしは今、長らく虐げていた子どもの自分と向き合っている。彼女の熱意をそのままに、大人のわたしの知恵をもって行動できるようになりたい。そのための思考錯誤が、赤ちゃんから成長していく息子に向き合う上でもおのずと役に立つ気がしている。
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