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生きてるって、恥ずかしい

 恥の多い生涯を送ってきましたとか、今回はそういう話ではなく、「生きる」ことについての話をします。

 どういうわけか、人生のかなり早い時期から、「生きる」ことを恥ずかしく思う気持ちがありました。
 自分が生きていることがうれしくて仕方なくて、「やったー、生きてるよ、ばんざーい!」という気持ちがあるのです。
 一方で、もう一人の冷めた目で見ている自分が、そんな動物みたいな「生きもの」である自分を恥ずかしく思ってしまう、とでもいう感じなのです。

 これだけだと、人には到底わかってもらえなさそうな気がするので、もう少し詳しく書きますね。

 私にはどうも、自分はこの世界でそんなに重要じゃない、大切にされるほどの値打ちもない、という思いが強いのだと思います。
 べつに自分は社会の役に立っていないとか、あるいは大切にされないからすねてやるとか、そういう意味ではないのです。
 そうではなくて、たとえ私が社会の役に立っているとしても、それは私の仕事が評価されているだけのことで、べつに私の存在そのものが大切に思われているわけではないと思うんです。

ひとりで生きてきた時間が長かったせいかも

 私は結婚できたのが遅かったのです。
 妻に出会うまで、ひとりで生きてきた時間がとても長かったことで、こんな考え方をするようになったのかもしれません。

 世の中の人々には、しょせんは他人にすぎないこの私という人間の「からだ」とか「いのち」なんかはどうでもよいのだろうと、私はどこかでそう思っているのです。
 そんな中で、ただ私ひとりだけが、自分の「からだ」や「いのち」を大切に思っているという感覚でしょうか。
 他の人が何とも思っていないものを、自分だけがひそかに大切に思っていた時の恥ずかしさ、に通じるような気がします。
 しかも、「からだ」や「いのち」は、自分で努力して手に入れたというものではないだけに、よけいきまりが悪いのでしょうね。

 いまは妻と出会えたことで、私の「からだ」や「いのち」を大切に思うのは、私ひとりではなくなりました。
 でも、ふたりの「からだ」や「いのち」を、お互い大切に思い合うようになってしまい、なんだかもっと恥ずかしいことになってしまっています(笑)

 私にとって「生きている」とはこのように「生きもの」である自分をひそかに大切に思って、恥ずかしい気持ちを伴うことでもあるようです。
 でも、それだけ自分を大切に思えるというのは、まあある意味健康なのかもしれないと、前向きに捉えるようにしています。

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